鹿児島県霧島市で看護師兼コミュニティナース(※)として日々奮闘されてる玉井妙さん。そんな玉井さんから、看護師になった経緯や葛藤、そしてこれから思い描いていること等を伺いました。
誰かが喜んでくれる
私は両親、兄2人、弟の5人家族で育ってきました。父は周りの様子を見ながら空気を読み、母は「ここだ!」と思ったら前に突き進む。二人とも真逆のタイプでしたが、楽しい家庭で育ってきたと思います。物心つく前は、よく兄たちの後を追って遊んでいました。
私の性格としては控え目。そして、泣き虫でした。よくピーピー泣いていたので“たえピー”とアダ名を付けられるくらい…。
小学校の時は兄の影響で漫画が好きになりました。「将来の夢は漫画家になること」って言うぐらい夢中になり、学級新聞の4コマ連載を任せてもらうようにもなって。
「次はどの展開でいこうかな」
「こうすると面白くなるよね」
そう考えながら描くのは楽しかったですし、何より皆から喜んでもらえることが一番嬉しかったです。
「得意なことで周りが喜んでくれることが自分の喜びに繋がるんだ」
当時は意識していなかったけど、そう感じた原点はそこかもしれません。
それに関連するエピソードがもう一つあります。祖母が病気で入院した時に弟と一緒にビックリ箱を作って、祖母を喜ばせようとしたこともありました。
中には「おばあちゃん、いつもありがとう」というメッセージ付きでした。しかし、祖母に渡すと箱の中身がうまく出ず、失敗しちゃって…。
私と弟は「あれ?」って慌ててしまいました。そんな私たちの様子を見て、祖母含め周りは大笑いしてくれたんです。
「一生懸命作ったのに…」って思ってしまったけど、結果として、祖母が喜んでくれたので安堵したのを今でも覚えています。
中学生になると1年生の時から生徒会の役員をすることになります。積極的の手を挙げたのではなく、周りからほぼ無理矢理やらされた形でしたけどね。でも、生徒会に入ってみると楽しいことばかりでした。
その中でも夢中になったのは缶のプルタブ集めです。毎年生徒会で活動しているものの一つで、最終的に地元の社会福祉協議会へ寄付をしていました。
たくさん集まれば車椅子と交換してもらえて、社会福祉施設等で利用される流れとなっています。
その背景を聞いた私はプルタブ集めに夢中になってしまったんです。プルタブを集め、車椅子に変わり、そうなることで誰かが喜んでくれる。そこが私のモチベーションになりました。
「家にプルタブないかな?」
学年関係なくほぼ全校生徒に対して聞いて回りました。最初は「う〜ん、どうだろうね」ってリアクションは微妙でした。
でも、たくさん当たっていくうちにプルタブを持ってきてくれる人が少しずつ出てきたんです。
そこからでした。色々な人がプルタブを持ってきてくれるようになったのは。何と、結果はゴミ袋3~4つ分。すごい量ですよね。過去の実績を調べてみると、平均して両手の乗るぐらい量でした。
「たえちゃん、頑張っているね」
「プルタブあったから持ってきたよ」
多くの生徒の協力もあって、集まったプルタブを社会福祉協議会に渡し、車椅子に変わることになります。
勿論、プルタブが車椅子に変わったという喜びもありました。でも、それ以上に、控え目だった自分が一生懸命アタックすることで、色々な人が動いてくれたこと。そこに嬉しさと喜びがありました。
その経験は自分の性質として一つの転機だったと思います。生徒会に入ってからは、地元のジュニアリーダークラブに参加したり、ボランティア活動にも参加したりするようにもなりました。
患者に寄り添った医療
高校に入ると獣医を志すようになります。恥ずかしい話、それまで羊飼いになることが夢だったんです。
それを本気で考えていて担任の先生にその思いを伝えると「獣医だったら、羊にも触れ合えるだろうし、命も救うことができるんじゃないかな?」と言われちゃって…。そこから現実的になり、高校時代はひたすら勉強を頑張っていました。
そんな日々を送っているうちに、あっという間に2年生へ。その時期に祖父の体調が悪化してしまいます。肺の状態が悪くて、在宅酸素をつけないといけないレベルでした。
家の中で移動するときも、小さな酸素ボンベを持ちながら歩く生活が続いていました。
祖父の闘病生活を見守っていた中で今でも忘れられないことがあります。それは、祖父に対するかかりつけ医の寄り添い方です。
その人は私がそれまで出会ったお医者さんとは全然違うタイプでした。祖父は状態が悪化していたとはいえ、こっそりお酒を飲んだり、タバコを吸ったりしていました。
普通にお医者さんだったら「それはダメですよ」って止めるかもしれませんよね。でも、そのかかりつけ医の人は「いいのよ、ちょっとぐらい」って言ってくれて。
祖父のどういうところが居心地よく感じるのか、祖父がどういう人で何を大事に残された時間を過ごしたのか。そんなことを考えながら接してくれるお医者さんだったんです。
結局、祖父は翌年に亡くなってしまいました。そのお医者さんとの出会いがあってから、医者を目指すのもいいなと思い、夢を獣医から医者へと変えることになります。
しかし、その夢はあっという間に砕け散ってしまいました。必死に3年間勉強したのに医学科には合格できなかったんです。家庭の事情で浪人することもできませんでした。
結局、医学科と同じ学部の看護学科へ進学することになりました。そこからしばらくは気持ちが落ち込む時期でした。医学科に合格した友人や知人たちが専用棟に出入りしている様子を見て嫉妬ばかり。
「自分は何をやっているんだろう」
そんなドロドロした感情でいっぱいでした。周りの人がキラキラしているようにも見えるし、授業についていけない…。勉強にも身が入らない状態が続いていました。
「このままではいけない」
「一歩でも進みたい」
苦しい状態の中でも、日々葛藤している自分。
そんな私に大きな転機が訪れます。それはインドネシアと日本の医学生が交換留学する企画でした。そこで同じ大学の医学科に所属する先輩たちと出会うことになります。
その先輩たちは地域の中で医療をどう提供していくか考えていて家庭医療を志していました。先輩たちと出会ったことで病んでいた私の心は救われたんです。
それまでずっと長くて暗いトンネルにいるような感覚でした…。だけど、やっとそこを抜けて道が拓けてきたんです。そこから「とりあえず、頑張ろう」って思えました。
先輩たちと話しているうちに共通する問題意識が出てきました。大学では座学を学んだり、医療現場で実習を通して経験を積んだりします。
その後の進路は、病院で医療従事者として働く。それが一つのルートになっています。でも、その流れは在宅で祖父を亡くした経験がある私にとっては違和感がありました。
私が求めている答えはそのルートにはない気がしたんです。皆さん、それぞれの状況や環境に応じた暮らしをしています。
医療は、病院の中で怪我や病気の治療をするといっても、それはあくまでも世の中にある暮らしの一部分に過ぎません。それも患者さんの命を救うために必要なことです。
ただ、私たちがやりたいと思ったのは、もっと患者さんに寄り添った医療の提供でした。
「それは実際に地域に暮らしている人の生の声を聞くことでしか実現できないのではないか?」
先輩や仲間とそのように話し合って、地域の場所を使い、医学生や看護学生が地域の人と対話ができる機会を作りたい。そんな気持ちが強くなって、『Caféきやんせ』を立ち上げることにしました。
子育てや介護等、毎月のようにテーマを変えて開催。そこでは地域の人や学生からのフィードバックが聞けたことや場作り設定の課題が出たこと等、良い点も悪い点も含めて学びばかりでした。
「私はどのような道を歩めばいいのだろうか?」
学校の外で学びを得られる反面、地域の人たちの声を聞けば聞くほど、将来の選択に対して、迷いが強くなってきてしまいます。
(※)『人とつながり、まちを元気にする』コミュニティナースは、職業や資格ではなく実践のあり方であり、「コミュニティナーシング」という看護の実践からヒントを得たコンセプトです。
地域の人の暮らしの身近な存在として『毎日の嬉しいや楽しい』を一緒につくり、『心と身体の健康と安心』を実現。その人ならではの専門性を活かしながら、地域の人や異なる専門性を持った人とともに中長期な視点で自由で多様なケアを実践しています。
実践の中身や方法は、それぞれの形があり、100人100通りの多様な形で社会にひろがり始めているところです。
(『Community Nurse Company』 HPより参照)
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聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長〜)
インタビュー日:令和3年6月22日
インタビュー場所:嘉例川駅