コミュニティナース

大学3年生の終わり頃。『Caféきやんせ』の仲間たちと一緒に島根県雲南市(以下:雲南)へ足を運びました。目的はコミュニティナースの矢田明子さん(以下:矢田さん)に会い、現場を見るためでした。

地域の人に寄り添った医療について調べていたら、矢田さんに関する情報を知ったんです。「これは行ってみねば」と思い、青春18切符で電車を乗り継ぎ雲南まで向かいました。

実際に同行させてもらった現場があるエリアは正に中山間地域。そんな雰囲気でした。
早速矢田さんの現場へ車で同行させてもらうことに。移動中に色々お話させてもらう中で衝撃的なことがありました。

矢田さんは窓から見える田んぼを指差して「田んぼの畝を見るだけで、この地域の高齢化率がわかるよ」とおっしゃったんです。

どんどん人が少なくなっているってことは何となくわかります。でも、さすがに田んぼの数を見るだけで高齢化率までは把握できるとは思っていませんでした。

それはきっと雲南の地域をあちこち回り地域の人たちの声を聞いている証なんだなと感じました。

同行しているうちに知った矢田さんの動き方や働き方。それらは私のモヤモヤしていた感情を突き動かしてくれたんです。自分が今まで抱えていた思いからか、自然と涙が出てきました。

「私は地域の中の暮らしとともに医療を提供していきたい」
「私もコミュニティナースになりたい」

そんな思いが強くなってきました。最後に矢田さんが「たえちゃん、大丈夫だよ」とハグして励ましてもらったのを覚えています。

雲南に行った時期は就活が始まる時期でした。そこから自分の思いを実現するために動き出そうと心に決めます。

私の中にあった元々の根っこ部分として、祖父に対するかかりつけ医の寄り添った医療のことがありました。

だから、まずは訪問看護ステーション(以下:訪看)で働いてみよう。そう思い、鹿児島県内の訪看に色々電話をして「働かせてください」とアタックしてみたんです。

しかし、現実は甘くはありませんでした。法律上の問題はないのですが、訪看側としては医療機関で数年実践を積んできた人材を求めている傾向があったんです。そのため、アタックしても全部断られてしまうのが現状でした。

「やっぱり数年は医療機関で経験を積まないといけないのかな…」

結局、一番望んでいなかった道を選択することになります。気を落としていても仕方ありません。

前向きに頑張って、ある程度経験積んだら訪看へ行こう。そう思い、大学卒業後は医療機関で働くことにします。

気持ちを切り替え、慣れないながらも看護師として医療現場で従事する日々。あっという間に毎日が過ぎていく中で、ある情報が入ってきました。

それは雲南でコミュニティナースとして地域に入って働く人材を募集しているというものでした。

その時は看護師になってまだ数ヶ月…。前例がない内容だったので、病院内で先生たちに相談をしても反対されてしまう状況でした。

確かに先生たちが反対するのもわかります。前例がないことでしたし、看護師としての経験も浅く、これからって時だったんですから。

それでもコミュニティナースになりたい気持ちに変わりはありませんでした。だから「えいや!」と思い、病院を退職し、雲南へ行く選択することにします。それは23歳のとき。看護師となって半年経ってからでした。

正解を求めるのではなく、一緒に作っていく

雲南では鍋山と呼ばれるエリアにある地域自治組織に地域づくり応援隊兼コミュニティナースとして所属することになりました。

地域自治組織は地域づくり・福祉・教育の3本柱で活動している団体で、いわゆる公民館のような立ち位置です。

私のメイン業務は、住民の方々に対する相談・見守り体制構築にあたるものでした。

例えば、実際に住民の方の声を聞いて困りごとを把握したり、私たちでは対応できない部分を他職種の人と連携して対応できるような体制を作ったり、一緒に地域に入ってくれる人材を発掘したり…。

そうすることで、困りごとを地域内でうまく対応・解決できるような仕組みを作っていこうというものでした。

直属の上司は、秦会長という、自主組織の立ち上げからずっと鍋山地区を牽引してきた方。みんなから「はたさん」と呼ばれ、厚い信頼を寄せられていました。そんな人のもとで、地域の人たちの身近なところで動ける。まさに理想の環境でした。

しかし、その理想とは裏腹にギャップもありました。それは、周りの人や環境が悪いという意味ではありません。

私のコミュニティナースに対する認識が違っただけの話なんです…。雲南に来た当初、私は正解ばかり求めている時期がありました。

1+1=2のように、何もかも正解があることを教えられてきた思考だった私。看護師も病院での修行期間があって、その中で学んだことをマスターすれば一人前と言われていました。

だから、コミュニティナースにも一種のマニュアルのような正解があると思っていたんです。

その時期の私は「どうしたらいいですか?」「答えを教えてください」といった受け身のスタンスでした。

正解を求めれば求めるほど、コミュニティナースとしてどういう動きをすればいいかわからなくなってしまって…。

本当は自分なりに考えなきゃいけなかったんです。「こういうことをしようと思っているんですが、何かアドバイスいただけませんか?」のような。

地域の人たちと関係性を作ることができても、その先の1ステップを踏み込むことができませんでした。当時の私は不安が付きまとって自信を失っていたかと思います。

そんな私の背中を押してくれたのは地域の人たちでした。その中でも後に様々な活動を一緒にすることになる方の言葉があります。

「鍋山にお嫁に来て、子供も地域の皆さんに可愛がってもらってきた。自分のできることで、鍋山に恩返しがしたい」

それをとてもイキイキと、とびきりの笑顔で話していたのを見て思ったんです。

「こんなにも地域のことを考えて、何かしたいと思っているって、本当にすごいことだ。私もこの人たちの力になりたい!」

正解を求めるのではなく、一緒に作っていくこと。考えてみればそうですよね。病院とかであれば治療方針があって、起きたことに対して流れが決まっているけど、地域はそうじゃないんです。だって、地域も生きているんだから。

自分もそうだけど、気持ちも状況も日々変わっていきます。その中で日々の営みを重ねて、それが一人一人の人生になっていく。

そのときに応じた最適解を見つけていくから、ずっと同じ答えなんてないことにやっと気づけました。それを地域の人に教えてもらったのはとても大きかったです。

そこから地域のお母さんたちと話す機会がありました。子供たちってどんどん大きくなりますよね。だから、その都度新しい制服を買うのにお金がかかる悩みが出てくると話が出てきました。

そういった背景から、鍋山のお母さんたちの間では、お互いの子どもの制服を交換する文化があったんです。

でも、お話をしているうちに、お母さん同士の繋がりがなかったり、何かしたらの事情で制服が欲しくても、もらえなかったり人がいることがわかってきました。

そこで地域のお母さんたちと一緒に制服交換会というイベントを開くことに。制服がいらなくなった人は持ってきてもらう、制服が欲しい人は取りにくる。そのような形にして開催しました。

地域の困りごとを聞き、そこから各々ができることをつなげて何か形にすること。私にとってそれを初めて形にできた経験でした。

ずっとコミュニティナースとして「“私”が頑張らないといけない」「“私が”提供しなきゃ」と思っていたけど、そうじゃなかったんです。

地域の中には色々な人がいて、それぞれ得意なことや困っていることがあります。それをつなぎ合わせたり、マッチングさせたりする役割もあることを学ばせてもらう機会でした。

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話し手:玉井妙(看護師/コミュニティナース)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長〜)
インタビュー日:令和3年6月22日
インタビュー場所:嘉例川駅
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。