宮崎県串間市で塩職人として『HAPPY SALT』を日々製造されている渡邊ネジ健太さん。そんなネジさんから過去を遡りながら今までの葛藤やこれからのことについてお話を伺いました。

構造を理解する

僕は小さい頃とても人見知りで人と話すと泣くぐらいのタイプでした。でも、心の底では不思議と「目立ちたい」と思っていて、妙に自分に対して自信があったんですよね。

あと、繊細な部分もありました。僕は小学校時代までは冗談が通じないタイプだったんです。実家があまりお笑いの文化がなかったからかもしれません。変なアダ名を付けられたり、イジられたりすると傷ついて泣いていました。

時には先生に相談したことさえあったんです。今だったらそんな自分に「馬鹿じゃないの?」って言うかもしれません。だって、いじめでも何でもなかったんですから。でも、当時は死ぬほど悩んでしまって…。そういう繊細さは今でも消えていないと思います。

そんな自分を変えたくて、少しずつ階段を登っていきました。一つ例を挙げると、小学校5年生までは自分のことを「ボク」と言っていたのですが、それが恥ずかしいと思っていたんです。

そこで、「オレ」って言えるように、当時流行っていたドラマの決め台詞を連呼するようにしました。すると、自然に「オレ」って言えるようになって、自信がついたのを今でも覚えています。

割と花開いたのは中学校からでした。2年生の時は生徒会の副会長になったり、全校生徒の前でモーニング娘。を踊ったりしていました。

だから、中学校時代は結構楽しかったです。卒業式の日はめちゃくちゃ泣きました。一緒に楽しく過ごした友人たちが別々の学校に行くのがとても寂しかったですね。

僕は小学校から高校まで野球をやっていました。きっかけは父が野球好きだったことや、小学校の時に少年野球チームができたことでした。

野球部では何かしらの成果を出すことはできませんでした。でも、人生において尊いことを学んだと思っています。

中学校時代は一度も試合に出れませんでした。だから、高校時代は人一倍頑張っていました。始発で学校に行き、帰りは終電で帰るくらい…。部活以外の時間も自主練に没頭していたんです。

ただ、どんなに努力しても自分より練習していない人や下級生にレギュラー取られたりすることが度々ありました。

それに対して、すごい憤りやフラストレーションを感じていたんです。そして、そのまま引退。

引退後に気づいたことがあります。僕ね、野球のルールを知らずに、ずっと野球をしていたんです。その時、思いました。僕がやってきたことは努力ではなかったって。

だって、まずレギュラーになるってことはチームに貢献できることが大前提になってきますよね。

自分がいかに身体能力を高めようが、体力を上げようが、ルールを知らない人が野球をできるわけがないんです。チームに貢献するとなったら尚更そう。

僕は毎朝10キロ走ったりして、色々トレーニングをしたりしていたから、手足を使って時間を割いていたから頑張っていると思い込んでいました。

努力は目的に向かうための手段であり、目的に向かっていない努力は努力ではないんです。そこに気づいた時、人生の深い哲学として僕の中に入ってきました。

そこからは、何かするとき、物事をみるときは、まず構造を理解することを何より大事にしています。

僕は大人になってから、原発に対する反対運動をやっていました。署名を集めて県知事に提出したこともあります。そのとき思ったんです。

「提出する県知事に原発を止める決定権があるのか?」って。

そもそも、日米原子力協定によって日本とアメリカで結ばれた約束の枠組みの中で原子力に関する政策があります。だから、県知事に対して提出しても目的に向かっているとはいえないと感じたんです。

僕は野球を通しての失敗で、全ての出来事を解釈次第では自分の糧にできるんだってことを学びました。そして、その中で自分自身に対する信頼関係がどんどん厚くなってきていると感じています。

ネジ

高校卒業後、実家がある千葉県内の食品工場に就職しました。初めての社会人生活で目にする光景。それはとてもショックなものでした。

一緒に働いている大人たちは自分の仕事を好きって言う人がほとんどいなくて、一生懸命さも感じないことも度々ありました。会話の内容はギャンブル等、しょうもない話ばかり…。

「社会人ってこんなものなのか?」

すごく失望しました。社会人1年目のある日、僕はこの工場で一番仕事ができるようになったら工場を辞める決意を掲げます。そして、4年後。働いていた工場を退職することになります。

工場で働いていたときに休暇を利用して行ったバリ島が居心地良くて、そこに移住しようと思っていました。でも、よくよく考えてみるとバリ島しか知らないのに、そこに移住するのは違うかもしれない。

そう感じ、世界一周をした方がいいなと思いました。その時です。ふと目に入ったのが『世界一周 148万円』のワードが目に入ってきました。

それは新聞に掲載されていたピースボードの広告でした。ピースボードは世界一周の船旅や国際交流の船旅をコーディネートするNGOです。早速、資料請求してみることにしました。

僕は“ネジ”って呼ばれています。きっかけはニットキャップに“ネジ”の名前を縫っていたことでした。

そのニットを被ってピースボードセンターに行ったら、“ネジ”の名前で盛り上がって、その瞬間からネジって色々な人から呼ばれるようになりました。

ネジってすごいんです。車やパソコン、携帯。あらゆるものを繋いで、そこに相反するモノがあり、ただただ真っ直ぐシンプルに力を誇示せず、何かと何かを繋いでいる。

僕はそんな人と人を繋ぐネジになりたいと思った。だから、“ネジ”って名乗るようになったんです。

ピースボードは僕のそれまでの人生とは真逆なものでした。僕は体育会系の野球部で上下関係や礼儀作法等、厳しい環境にいたからかもしれません。

お互いをアダ名で呼び合い、今まで出会ったことないタイプの人たちと一緒に居心地良く過ごし、仲良くなれるスピード感。そんな一つ一つのことにトキめいたのを覚えています。

工場を辞めて半年後、世界一周110日間の旅へ。寄港地では観光プログラムに参加したり、自分で計画して散策したりしました。参加者は同世代の人もいれば会社を経営している人、定年を迎えた人等、様々でした。

僕が参加したときは千人前後は乗っていたかと思います。ほぼ船の上で過ごしていたので、船が一つの国のようにも感じられました。

ピースボートは自分を変えたきっかけの一つでした。それは、本当になりたい憧れの自分になれたから。“ネジ”はアダ名ではなく、ありたい自分像なんです。

僕は本名が渡邊健太だけど、“ネジ”って呼んでもらうことで“ネジ”を演じることができました。それは、今までの地元の友人や知人等、僕のことを知っている人がいない全く新しい環境にいたことが大きかったからかもしれません。

だからこそ、完全ではないけど、当時なりたいと思っていた自分像に変身することができたんだと思います。常に明るくて、人気者でした。船の中では運動会もあり、団長もさせてもらいました。色々な人が僕に注目してくれて、自信にもなりました。

でも、そうなったとき思ったんです。その状態が思うほど幸せじゃないって。憧れって机上の空論に過ぎません。だから、実際に憧れの自分になれたからといって、それが必ず心の底から思っている自分像とマッチしているとは限らない。

そう感じるようになってからは、誰からどういう風に思われるよりも、自分が自分のことを理解して、そのときにそうありたい自分自身でいられるようにありたい。そんな風に思うようになりました。

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話し手:渡邊ネジ健太塩職人
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和3年5月22日
インタビュー場所:CAFE10 × VAN de COSMICA
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。