義務感

ピースボードの旅を終えた後、23歳になり、千葉へ戻ることになります。僕は元々環境問題に興味がありました。ピースボードで更にその思いが強くなって、原発問題等に人生を捧ぐようになったんです。

時には、核燃料再処理工場がある青森県六ケ所村に足を運んだり、反対運動行進をしたりしていました。「再処理工場だけは止めないと!」という使命感が強かったと思います。

でも、社会に対して「変えよう」と強く訴えているのに、僕は自分のことを何一つ変えていませんでした。そんな自分がダサいと思ったんです。

そこで、行き着いた結論として電気とお金でした。当時、電気もお金も使わないで楽しそうにカッコよく生活することができれば問題解決できると考えていました。だから「俺の生活を変えよう、俺がやればいいんだ」って思ったんです。

そこから、廃材等を使ってDIYで自給的なライフスタイルを自分の人生の使命にしました。それが25~26歳の時だったと思います。築180年の古民家を借りて改修をし、そこで平飼い有精卵を育てたり、有機野菜を作ったりしていこうとしていました。

そんな矢先、東日本大震災が発生。発生時、僕には妻と長男がいました。僕が住んでいた千葉のエリアはそこまで被害がなかったものの、原発に対する知識があった僕は家族と共に千葉を離れようと決心します。

千葉を離れたのは震災から4日後の3月15日でした。当初は何も考えず、友人が住んでいる宮古島に逃げようと思っていました。でも、宮古島のことをよく調べてみると僕が思い描いていた場所とは違っていて…。

宮古島行きを断念し、友人に連絡しました。すると「日本中見たけど、宮崎県の串間市(以下:串間)は海も山もあってトップクラスに豊かな土地だよ」「人も紹介するよ」と教えてくれたんです。串間に着いたのは3月19日でした。

串間に着いてすぐに1年間住まないといけない状態になります。それは、串間在住の方がNPO法人を立ち上げようとしていて、その手伝いをしないといけなくなったからです。

会った瞬間に「一緒に働いてくれない?」って声をかけられて…。何となく串間に来たけど、まさか住むことになるとは思いませんでした。

「働いてくれ」と言われたのに、実際は何も事業がない状態…。会社の規約を作ることからでした。同じNPO法人の地元のメンバーが所有していた塩釜を使って塩作りをスタートさせました。それが僕の今やっている塩職人としての始まりでもあります。

吉田好男さんという無農薬みかん山で仲間たちと塩釜を作り塩を炊く文化があったので、オーソドックスな手法はあったんです。その手法を用いて、自分なりに試行錯誤を繰り返し、独自の手法ができていきました。

「これ、いけるかも」と感じ、そこから販売も始まったという流れです。それは串間に住み始めて1ヶ月後のことでした。名前は串間にある幸島(こうじま)の名前をもらって『HAPPY SALT』と名付けました。

串間に住んでからも千葉でのライフスタイルを取り入れていました。自分が選んだ土地で好きな人と好きなことしかしていない生活。世の中の人からしたら「最高かよ」と思えるかもしれません。

でも、そんな日々を送っていたのに、朝起きたら「今日も1日生きないといけないのか?」って思う自分がいたんです。何もやるにも億劫だし楽しくありませんでした。その状態が20代の後半だったかと思います。

その背景にあったもの。それは「〜〜でなければならない」という思い込みの義務感でした。

わかっていないことをわかること

自分が思い込みの義務感をもっていたことに気づいたのは参加したヴィパッサナー瞑想(※1)という10日間の瞑想会でした。

その9日目のことです。振り返りをすることになり、講師や周りの人の話を聞いていると、僕は言われたことをちゃんと守っていないことに気づいたんです。

その瞬間、自分の意識が真っ暗闇の深海の底に落ちたような感覚になり、15分くらい嗚咽をあげて泣き崩れてしまいました。それがきっかけで自分のおぞましいほどのエゴに気づくことになります。

「自分は合っているんだ!正しいんだ!」「間違っていない!できてるできてる!」と思い込みたかったんだなと思いました。僕は20代の時に「僕がこういう暮らし方をすればいいんだ」と思って、自分が魅力だと思い込んでいる生き方を発信していました。

そうすることで「僕のような生き方をする人が増えていき、その先に自分が望む世界があるんじゃないか」って考えていたからです。でも、根本にあるのは「僕ができたから、あなたにもできるでしょ?」ってことなんです。

僕は自分のことを肯定したいがために、相反すると見えるモノ・思えるモノを敵にして「あれはダメだ!」と言っていただけ。そうすることによって「俺は合っている、正しい」と思いたかった…。

そういう哲学をもって自分が正しいと思っていたライフスタイルを送っていたことで僕は僕でずっと無理していたんです。原発に反対し地球を救おうと思っていた自分。都会を憎く感じ、お金を稼ぐことに否定的だった自分。

そんなみっともないエゴのために世の中を悪くしていることがものすごく恥ずかしく感じました。

瞑想会を終えてからは、自分は正しいと思い込んでいたというフィルターがあったことと、なるべくニュートラルに物事を見つめていこうという意識が芽生えるようになりました。

それが明確に気づけるようになったきっかけはNVC(※2)や瞑想会、アドラー心理学(※3)です。自分の体験と経験によって生まれた哲学と非常にリンクしていて、それらに救ってもらいました。

2年前、塩釜に穴が空き、塩が炊けない状態になってしまいました。
「自分のライフスタイルって、すごい豊かだな」
僕はそんな状況になるまで、そんな風に思っていました。

でも、塩釜に穴が空いても、新しい釜を作り変える蓄えがありませんでした。そのとき思ったんです。

「何が“豊か”だよ」って。

「自分の商売道具すら自分の力で修理できないような生活を“豊か”って言っていいのか?そもそも、こんな暮らし方でいいのか?」とすごく悩んでしまいました。

気持ちが落ちてしまい、とりあえず、一度考えることを止め、以前からお世話になっている串間の土建屋さんでアルバイトをすることにしたんです。

「最近どう?」とバイト中に社長さんから聞かれ
「いや、実は、釜に穴が空いてしまって…塩が炊けないんです…」と答えると
「え?そうなんだ、それなら釜を持ってきなよ、直せるかもしれない」と言ってくれたんです。

そのやりとりはバイト初日の午前中のことでした。仕事中だったのに、釜を取りに帰るように言ってくれて、釜を見てくれました。結局、そこでは直せませんでした。

でも、社長さんが知り合いに連絡してくれて、わざわざその人が釜を見に来てくれたんです。その人は僕の知り合いでもありました。話をしていくうちに材料費だけで作ってくれる流れに…。

そこからSNS等を利用して自分の状況を発信し「助けて」と言えるようになりました。すると、これまで塩を買ってくれた人やSNSでつながってくれた人が様々な形で支援してくれたんです。

精神的にも立ち直ることができて「塩作りを続けよう」と心の底から思えました。塩釜が壊れたこときっかけで思ったことがあります。

「ちゃんとお金を稼ごう」って。

そう思えた根本は自分のライフスタイルが豊かだと思い込んでいたこと。そこに気づけたことは大きかったです。

瞑想会で感じたことも塩釜に穴が空いたことも背景には、自分の中にインストールした情報が絶対に真実だと思い込んでいたことが始まりでした。その正義を暴力的に振りかざして生きていたんです。

でも、そこから、わかっていないことがわかるようになってきました。そして、その状態になってはじめて物事をあるがまま見ることができるんだなと思ったんです。

自分と違う意見が出たとしても、それで敵だと見なさなくなったし、良い悪いといったジャッジが無意味だと思うようになりました。だから、今は世の中のことを自然に見れるようになってきました。

※1 ヴィパッサナーは、物事をありのまま見る、という意味。インドの最も古い瞑想法の一つで、2500年以上前にゴーダマ・ブッダによって再発見され、普遍的な問題を解決する普遍的な治療法、生きる技として、多くの人に伝えられてきている。自己観察による自己変革の方法。

※2 Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーションの略。1970年代にアメリカの臨床心理学者マーシャル・B・ゼンバーグ博士によって体系化され提唱された自分のうちと外に平和をつくるプロセスのこと。

※3 アルフレッド。アドラーが築き上げた心理学。技法面での「勇気づけ」と「共同体感覚」という価値観。この二つを大切に考えられている。

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話し手:渡邊ネジ健太塩職人
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和3年5月22日
インタビュー場所:HAPPY SALT 作業場
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。