与えること
私が入職した病院は900床くらいで、日本の民間病院では上位の規模を誇っています。その病院に理学療法士として入りました。4年間、この病院で働かせてもらいましたが、常に研修の日々でした。
リハビリ専門の病院や外来のクリニック、特別養護老人ホーム等、色々な施設が一緒になっているグループだったので、その中を周りながら数ヶ月・半年・1年単位で研修として学ばさせてもらいました。
定期的に研修する施設が変わるので、常に新人のような感覚でした。病院やチームが主催する勉強会も多く、とにかく教育体制が凄かったです。
常に環境が変わるということは、新鮮な気持ちだったり新しい学びがある喜びがあったりしましたが、周りのスタッフが変わったり緊張感もあったりもしたので、身体的にも精神的にも疲れている自分がいました。
疲れている時は、職場の人と飲み会に行くか、同期と遠くへお出かけをするくらいしか楽しみがありませんでした。それぐらいしかストレス発散がなく、仕事もプライベートも関わりは病院内の人だけという狭い世界で過ごしていたんです。
この病院は寺小屋のような場所でした。北は北海道、南は沖縄まで全国からスタッフが集まってきてたくさんのことを学んでいきます。そして、ある程度学んで育ったら、散らばっていき、それぞれの拠点でアウトプットしていくことが多いです。
それは、お医者さんや看護師さん、私のような理学療法士等、皆関係なく同じでした。どの立場も人も、どの世代の人とも話をしていても意識が高く、やる気がある人であったので、そんな周りの存在が私を支えてくれたと思っています。
そして、学ぶ環境や選択肢を知る機会の大切さも知りました。おそらく、この病院で学んでいなかったら、理学療法士としての姿勢だったり、今活動ができているきっかけを作ってくれた繋がりだったりというのはなかったかもしれません。
広島には千葉の病院で数年経験を積んだら戻ろうと思っていました。退職後は広島県の公立病院にて勤務することになります。そして、入職してから半年後には今いる救急救命センターの集中治療室(以下:ICU)に配属されました。
ICUでは衝撃を受け、心臓がドキドキすることが多いです。急に患者さんの容態が急変したり、患者さんが亡くなってしまい御家族が感情的になってしまったりと、感情が揺さぶられてしまう場所でもあります。
昨日まであったはずの名前が翌朝来ると無くなっていることもありました。その日々の中で私の中にある“人が亡くなる”ことに対する感覚が麻痺していったんです。人が亡くなることは何なのか、わからなくなってきていました。
ただ、深く考えすぎると、感情に揺さぶられ、仕事にも影響してくるのもわかっています。だから、医療者として、一人の人間として、命の重みについて葛藤していました。
そんな中、一人の患者さんの生き方に私は胸を打たれました。その患者さんは、生死を彷徨う重い病気でICUに運ばれてきた男性(以下:彼)です。彼は辛い状態にも関わらず、私たちスタッフに対して「ありがとう」「ごめんね」等、常に笑顔で謙虚でした。
リハビリも苦い顔をしながらも「よろしく」と口パクで言ってくれて、必死にこなしていました。不意に部屋を覗くとリハビリを自主的にやっていて努力家でもあったんです。しかし、動作能力の改善とは裏腹に、内科的には思うように改善しませんでした。
それでも、彼は最期まで丁寧に笑顔で対応してくれました。そんな彼の姿や姿勢が、亡くなってからもずっと私の心に残っているんです。彼は生きることや笑顔でいることを諦めないために最大限に頑張ってきました。
彼の死を通して生を学び、私も彼に支えられていたことを痛感しましたし、思ったんです。
「自らの生き方を通して人を支え、勇気を与えられる人は、たとえ、その肉体が滅びようとも、人々の心の中に生き続ける」
誰かの生き方が最後まで見えた時、自分も影響を受けると感じました。私だったら“目の前の人を笑顔でハッピーにする”ことを軸にしているので最後まで笑っていたいし、笑わせていたいんです。
誰にだって影響を受けた人はいると思います。誰かに何かを与えれば、誰かの元で生き続けることを彼の生き方を通じて学びました。
選択肢を知ること
広島には若手医療関係者のコミュニティがあります。前職を退職したタイミングでお世話になった方が、そのコミュニティの方々と繋いでくれたんです。そこから医療関係者の友人が増えていきました。
交友関係を増やしていくと、オンラインサロンを通じて医療関係者以外と繋がりを持つようになります。
「こんな人たちがいるんだ!」
純粋にそう思いました。それまでは私はSNSもしておらず、情報難民でしたし、医療関係者以外とほとんど交流がありませんでした。オンラインサロンでは、お天気キャスターをされている方やSNSのインフルエンサー的な存在の方、医療系に興味がある弁護士の方等と知り合い、世界の広さを知りました。
医療以外の世界を知らない私にとって、オンラインサロンに入ったきっかけは単なる興味本位だったかもしれません。でも、そこから面白いなと思ったことをブレストしたり、悩みをnoteに綴ったりするようになりました。
ブレストをしていく中で大体課題は煮詰まってきたので「何があったら解決するんだろう?」と考えるようになったんです。「言葉にして発信することで、誰かが拾ってくれるのではないか?仲間が見つけるかな?」と思い、SNSの運用も始めました。
その当時、私は目の前のことで精一杯でした。「自分はこのままでいいのだろうか?一体何をしていきたいのか?」を悩んでいました。そんな時、一冊の本と出会うことになります。
それは『医療4.0』という本で、いわゆる医師でビシネス畑にいる人たちが今後のことを見据えて綴ったものです。その中には、今後、自動化出来る単純作業は自動化へ、そうでない部分は医師からコメディカルへ、医療者から非医療者へ、病院の中から外へと裾野が広がっていくことで医療の質があがると綴られていました。
その本を読んで、私は気づいたんです。私がやりたいのは医療者から非医療者となる仕組みを作ることだって。ICUには多くの患者がやってきます。
昨日までいたはずの患者が翌日にはいなくなっていることもあれば、状態が良くなったはずなのに急変して最期を迎えてしまう人だっているんです。日々そんな光景を目にして言葉にならない気持ちになってしまいます。そのうちに「もし、救えたであろう命が一つでもあったなら…」と思うようになりました。
ICUにくる患者の多くは、重症な病気になって入院してくることがほとんどです。しかし、その病気の背景には、生活習慣病が存在しますし、生活習慣病の背景には地域での暮らしであったり、社会的な環境・文化が存在であったりします。
人々の健康として社会に目を向けた時、必要となるのはひっきりなしに溺れる患者を助けることではなく、問題を上流から解決する病気の根本的な原因を探ることであることに気づいたんです。
私は“病気の予防をする”という選択肢を知らないことは不幸だと思っています。だから、病気が悪化して入院する前の段階の人たちに、その選択肢を届けることにチャレンジしたいと思うようになりました。
そのチャレンジについてヒントを与えてくれたきっかけの一つとして65歳になった両親の退職後の動きでした。父は40年以上ずっと仕事をしていました。だから、地域の人たちとも繋がりが薄く、地域内に友人があまりいませんでした。
退職後、父はしばらく家に籠っていました。そんな父に変化が起きたのは祖父の体調が悪化したことでした。そこから、祖父の介護や料理をしていくようになりました。そうしていくうちに栄養に拘った料理を作れるようになり、今では孫の顔を見に出かけたり、地域のコミュニティにも入れるようになったんです。
母は、昔から人付き合いが良く、退職する前からやりたいことを決め、準備を進めていました。だから、退職後は友人らとやりたいことをやって楽しく生活しています。
その二人から感じたのは、人の行動を変えるためには使命感やワクワクという感情に訴えかけることが必要であることでした。父からは祖父の介護を通じて、使命感が生まれ、そこから生きがいになっていくこと。母からは楽しんで行動することを通じて、楽しいとかワクワクする感覚は行動に繋がること。この2つを確信したんです。
医療にも、予防医療が必要な人たちに使命感やワクワクを掛け合わせられる仕組み作りができるのではないかと感じました。人の心を動かせないと行動に移させることはできません。そして、本当に情報を届けたい人に届かない…。そこから、私なりに色々と考えて、行動していくことになります。
(後編はこちら)
(前編はこちら)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:宮島
インタビュー日:令和3年2月11日
※河村さんは令和3年3月末に取材時に所属していた病院を退職し、現在は関東へ拠点を移し、フリーランスとして活動されています(令和3年4月1日時点)。