『LIFE IS SPICY!!!』
そう掲げ、日々新たなるスパイスを求めて世界中を駆け巡る元気印の料理人、溝端裕子さん。
そんな彼女にスパイスとの出会いから今まで、そして、これからについて話を伺いました。

スパイスとの出会いはニッキ飴とジンジャークッキーだった

私にとって幼い頃からスパイスは、『実は』身近な存在でした。

話は幼少期から遡っていきます。当時、おばあちゃんに貰ってよく食べていたのはニッキ飴でした。材料として何が含まれているか知らなかったのですが、舐めてるときにジワジワ~とした独特の苦味と渋みが好きでした。

小学校低学年になり、色んなバリエーションのクッキー作りに夢中になりジンジャークッキーを作ったのですが、食べて衝撃。なぜなら、その味は大好きなニッキ飴と同じだったから。材料としてシナモンが使われていることを初めて知りました。

それが私にとってシナモンとの出会いであり、スパイスに対して興味を持ち始めるきっかけでした。そこから、スーパーの調味料コーナーで様々なスパイスを見るのが楽しみになりました。

中学生になり、夜な夜な台所を牛耳って料理をするようになる頃、母の買い物で高島屋へついて行く機会がありました。百貨店ではスーパーには置いていない調味料がたくさんあり、いつもにも増してワクワクしている自分がいました。

その中で特別心を奪われたのが、神奈川県鎌倉市にあるアナン株式会社のロングセラーである『アナンの黄色のカレーブック』(スパイスから作るカレーキット)。当時スパイスから作るカレーを知らなかった私にとって、その商品は衝撃でした。

「スパイスからどのようにカレーを作るんだろう、作ってみたい!」と思いました。そして、英語の勉強が好きだった私は1度も行ったことがなかった外国に対し、「世界中の人たちは、毎日どんなものを食べて、どのように暮らしているんだろう。実際に行ってみたい!」と思うようになりました。

ここまでは幼稚園から中学校にかけて、人生で初めてスパイスと出会い、愛が芽生え出す頃までのお話です。

初めてのインド旅とカフェでのアルバイトを通じて得たのは、未知なる世界に対する探究心と向上心

大学3年生の時、初めての一人旅で1ヶ月間、中学生の頃から行ってみたいと思っていたスパイス大国インドへ。全てが初めての経験で、この旅が私を大きく成長させてくれることになりました。

その頃、便利なアプリなどはなく、地球の歩き方や紙の地図と睨めっこしたり、現地の人に聞いたりと、インターネットに載っている情報ではなく、自分の目で見て感じたことと、現地の人が教えてくれたことを頼りに色々な場所を訪れました。

不安よりも、見たことないものを見たり食べたり、行ったことのない場所へ行くことで、ワクワクが止まりませんでした。インド人の優しさに触れ(時に騙され)、互いの母国語がわからなくても意思疎通しようとするチャレンジ精神を鍛えられました。

旅を終え、日本に帰ってからは就職活動の時期でもあり、改めて「アナン株式会社で働きたい」という気持ちが強くなったのですが、電話で求人募集を伺ってみたものの、当時アナン株式会社は求人を募集していなかったため、断念。

大学2年生の頃から働いていた無印良品が運営する「Café&Meal MUJI」でのアルバイトを続けることを選択し、卒業後は、アルバイト時代よりも深く日本各地の「食材」を通し「地域」を知ることの出来る期間となりました。

当時、一緒に働いていたスタッフ達は、常に向上心があり、食に対する学びだけではなく、それぞれの生き方や夢に対する考え方、チームワークやコミュニケーションの大切さを学べるとても恵まれた環境でした。

当時の店長はじめ、先輩たちの愛あるご指導の中でたくさんのことを経験し、「今日は何を先輩たちから盗もうかな」、そんな気持ちで日々のバイトに臨んでいました。今でも連絡を取り合う程、夢に向かって切磋琢磨する大切な仲間と出会えたことが何よりの宝となったバイト先でした。

食に関する仕事を求めて九州へ

九州が大好きになったきっかけは、当時お世話になっていた店長の田中さんから「鹿児島に絶対行ったほうがいい、溝に絶対合うよ」と勧められたこと、そしてそのときに元BRUTUSの編集長の岡本仁さんの著書『ぼくの鹿児島案内』を教えていただいたことでした。九州へ行ったことが記憶になかった私は、すぐに鹿児島へ足を運びました。

大阪とは全く違う九州の食べ物を知り、特に甘い醤油の存在を初めて知った私は衝撃を受け、「日本ってどこへ行っても、ほとんど食べ物も暮らし方も一緒だろう、世界から見れば小さな島国で刺激がないな」と勝手に決めつけていた自分の狭い視野と考えが180度覆されることになりました。

気が付けば、鹿児島の心の広さと自然のデカさ、素材の美味しさに魅了され、多い時には2ヶ月に1度通うようになった私は、「これからも食に携わる仕事を続けていく中で、生産者さんの立場に立つことが大切なのではないか」と気付かされ、鹿児島の農場で働きたいと思い始めるようになりました。しかし、鹿児島でやりたい仕事が見つかりませんでした。

その後、求人を調べていたら、日本仕事百貨という面白い求人募集のホームページで長崎県にある小値賀島の地域おこし協力隊募集が掲載されていました。仕事内容は小値賀島の農産物を使った商品開発で「これだ!」と思い応募し、無事に採用され、その年の10月末から小値賀島での生活が始まりました。

初めて、小値賀島に来たとき、「愛の心で他人の子も叱りましょう」と書かれた看板を見つけたことも、島に住む決め手の一つでした。大阪では地域の子を叱るような濃い関係性はなかったので、この島には家族のような温かい人との繋がりの濃さがあるのでは、と感じたのです。

後編はこちら

話し手:溝端裕子(スパイス料理人)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:暮らしを育む家・弥三(やさ)
撮影協力:長谷川雄生・沙織(暮らしを育む家・弥三)
インタビュー日:令和2年3月8日
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。