福島県会津若松市で住宅・店舗のリノベーション・イベントブース等づくりを行っている『wowroom』代表・齋藤康平さん。そんな齋藤さんから、地元である猪苗代や会津若松での暮らしや、陸上自衛隊だった時のことを通じて、現在の動きに至った背景等を伺いました。

先のことをなかなかイメージできない自分

僕の地元は猪苗代町で、実家のすぐ近くに磐梯山がそびえ立っています。家を出ると、すぐに裏山や畑、川があって、幼い頃は兄弟4人で曽祖母の畑仕事の手伝いや、近くの川でドジョウを捕まえたりして遊んでいました。同級生が30人程しかいない小さな学校だったので、友人の家までは遠く、同級生よりは兄弟で遊ぶことが多かったです。

実家は65年前から建材屋を営んでおり、住宅の建材の卸をメインで事業をしていました。父が乗ったトラックに乗って現場へ行き、小さな端材を組み立てて遊んだり、大工のおじさんたちが休憩している時に、一緒にお茶やお菓子を食べながらお話したりするのが楽しみだったのを覚えています。

その時のイメージが残っているのか、今の仕事をしてる中で、現場の途中段階でワクワクする自分がいるんです。職人さんの腕前を見て惚れ惚れすることもあれば、休憩時の他愛ないコミュニケーションを楽しむこともあります。ただ、当時は家業を継ぐ気持ちもなかったし、建築についても興味がありませんでした。

スポーツが好きで、小学校4年から始めたクロスカントリースキーについては22歳まで続けました。始めたきっかけとしては、楽しそうだから、というよりは、気がついたら自然にやっていたという感じです。

人数の少ないエリアに住んでいたからこそ、部活の選択肢が少なかったんです。だから、「やるぞ!」って気持ちで始めたわけではありません。

それでもスキーを始めてから一生懸命練習して結果が出ると充実感が出て楽しかったです。結果もですが、遠征のために泊まりで大会に行くことや、大会後に保護者が作ってくれる豚汁を食べることも楽しみだったんですけどね。

高校を選ぶ時期になって、当時思っていたのは「スポーツしかない!」でした。県大会で表彰台に上がった事や、全国大会のリレー競技で入賞したこともあり、スキーの推薦で会津若松市内の高校の建築科に入学しました。建築科を選んだ理由は今でもわかりません。実家が建材屋だったので、割と無意識に選んだんだと思います。

ただ、将来実家を継ぐとか建築家になろうという気持ちはありませんでした。3年間部活に明け暮れた生活を送り、メンバーにも恵まれ、楽しくスキーができました。

将来のことを選択する時期になっても、先のことをイメージできませんでした。勉強はしていなかったけど、スキーで大学に行くことはできていたかもしれません。

それでも、大学に進学しなかったのは、勉強が好きでなかった事や大学生活がイメージできなかったから。就職についても同様です。そんな状況で母に言われたことを今でも覚えています。

「地に足をつけて歩きなさい、ちゃんと将来のことを考えなさい」って。
それでもピンとこなくて…本当に将来のことをうまくイメージできなかったんです。

何のために

高校卒業後、僕は自衛隊員として福島駐屯地に配属されました。スキーの成績が評価されて入隊したので、演習訓練よりはスキー訓練の時間が多かったです。入隊して2年くらいは「自分にこの仕事合っているな、続けていけそうだな」と感じていました。

しかし、割と3年目くらいになると「この仕事を長く続けることはないな」って思い始めたんです。簡単に言うと、充実していなかったんですよね。好きなことはしているのに満たされていなかった感じで…。

そのように感じたきっかけとして、山に演習に行く機会がありました。演習の時間を通して、「何のためにやっているんだろう」「これって意味があるのか」「将来役に立つのか」「誰のためにやっているのか」って思ってしまったんです。

演習訓練は、将来“もし”有事が起きた時に、自衛隊として訓練をします。“もし”というのが、実際いつ起きるかもわからない。“もし”だから、起こらないかもしれない。有事が起きないことに越したことはありません。

それでも、自分はその訓練に意味を求めてしまった…。僕は多分結果を求めるタイプの人間だったのかもしれませんね。将来のことを明確にイメージできなかったこと、社会の何のためにもなっていないと感じた僕は自衛官を4年で辞めることにしました。

自衛隊時代の心残りが1つだけあります。それは、災害派遣に出たことがないことです。災害派遣って、実際被災した人たちや街のために全力を尽くし業務にあたります。

それはきっと“誰かのために”必ずなると思っていて、自衛隊時代に“誰かのために”ということを肌で感じられなかったことが大きかったと思うんです。もし、災害派遣に一度でも出動していたら、自分の気持ちは変わらなかったかもしれない。それは今でも思います。

当時、自分の中にあった葛藤や迷いは誰にも話していませんでした。上司には「どうして辞めるのか?」と何度も呼び出されました。上司から呼ばれたのに、僕は上司がいる部屋に行かないこともありました。それは一種の反発だったかと思います。

振り返ると、よっぽど辞めたかっただろうなって。辞める年には、辞める上でのメリット・デメリットをノートにびっしり書いていました。色々整理して結果、自分の中で辞めたほうがいいって気持ちが更に固まったんです。

実家の両親に自衛隊を辞める意思を伝えると「とりあえず続けたら?」って声もありました。僕に実家の家業を継がせる予定もなかったし、建材屋の大変さを一番身に染みていたからこその言葉だったのかもしれません。

両親の気持ちとは裏腹に、自衛隊を辞めた後、実家の建材屋で働くことになります。

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話し手:齋藤康平(wowroom代表)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:wowroom
撮影協力:wowroom
取材協力:斎藤拓哉(隠れ家ゲストハウス-Kakurega guesthouse-代表/空き家てらす
インタビュー日:令和2年11月9日
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。