不安との戦い
実家の建材屋で働くようになり、最初は本当大変でした。実家が建材屋だったとはいえ、手伝いやその業界の知識や技術もなかったので、右も左もわからない状態だったんです。自分の仕事は、卸す建材をトラックで運ぶ配達要員でした。
運んでいても何を運んでいるかわからなかったし、違う材料を間違って持って行ったりすることもありました。その度、現場の職人さんたちに怒られることも多く…。失敗を繰り返して、職人さんたちに色々と教えてもらっていく中で、必要なことを覚えていったんです。
配達の仕事をしているうちに「この配達している時間が勿体無い」と思うようになりました。正直、配達って代わりがきく仕事で、自分じゃなくてもよかったんです。仕事に慣れてくると「つまらない」と感じている自分がいました。
そのように感じ始めた時期ぐらいから、建築業界のハウスメーカーが地方の小さな街にも進出してきました。地元の職人さんが「仕事を取れなくなってきた」という声が出てきましたし、実家の建材屋も仕事が少なくなってきたんです。
当時、配達の仕事を手伝い始めて5年くらい経っていて、自分の中でモヤモヤと心配事でいっぱいでした。実家の建材屋の配達ではなく、自分自身が個人として元請けを始めようか迷っていたんです。
迷っていた理由としては、「元請けをしたら地元の職人さんたちに嫌われるのではないか」「自分はやっていけるだろうか」という不安があったからだと思います。
そして、自分のやりたいことに拘った事業をやりたく気持ちが固まり、リフォームで小さな手直しをすることから始めました。それが今の仕事に繋がる第一歩になります。
実家の配達を手伝っていた時と同じように、知識は現場で。職人さんたちに怒られながら、この材料はこう使うとか、これはこの箇所につけるとか、少しずつ覚えていきました。最初に扱った数件は心配で夜は眠れませんでした。「明日大丈夫かな」「クライアントさん、喜んでくれるかな」って不安になってしまって。
そんな自分でも少しずつ力や自信をつけたくて、違うエリアで気になった建築関係の会社の方にアポを取って話を聞きに現地へ足を運ぶことも度々ありました。基本的な見積もりの作り方を聞いたりして、今思うと「何て小さなことを聞いていたんだ」と思うけど、それだけ知識もなかったし、何より必死だったんです。
何が正解かわからなかったし、不安もとても大きかった…。それでも自分に建築業界の先輩や職人さんたちは優しく色々と教えてくれてました。不安との戦いの中で、自分のことを支えてくれたのは周りの人たちの優しさでした。
皆が”にんまり”になるのがいい
5年前にデザイン系リノベーションをブランディングする『wow room〜会津の暮らし〜』を立ち上げました。最初は店舗系から。地域活動で知り合った人が「一緒にやろう」って言ってくれた案件があり、結果、その人は出来上がった店舗を見てとても喜んでくれました。
安堵の一言でした。今でもですが、毎回「喜んでもらえるかな」って不安だったので。そこから、「うちでもやってくれないか」と相談をしてもらえるようになり波及していったんです。
建築の業界にいて、当初、拭えない劣等感がありました。それは建築関係の大学などでしっかり勉強をしていなかったことです。どの大学に行ったのか、どんな資格を持っているのか、建築の業界の人と会うとそんな話になり、恥ずかしくなる自分がいました。時には、会話の場から席を外すことさえも…。
それでも最近は、この劣等感があって良かったと思っています。固定概念の話になると、決まりきったことをやらないことや毎回違うデザインをするのが楽しいんですよね。
そして、色々な人との関係性の話になると、もし建築関係の大学に行っていたら、それなりの人脈はできていたかもしれない。自分で関係性を作っていかないといけない状況でした。だからこそ、自分で必死に考えて、自分が必要なものを必要な時に必要な人に取りにいくようになったんです。
その中で、自分はどういうことをやりたいのか、仕事をどういう風にやっていくのか、どうやって自分のことを知ってもらえるのか等、自発的に考え行動する力がついてきたかと思います。
自衛隊時代との違いとして、自分が培ってきた技術や知識をアウトプットとして出せているかどうかは非常に大きいです。クライアントさんから「ありがとう」と言われると素直に嬉しい気持ちになります。
「これでいいかな」って思っていても、面と向かってお礼を入れることは救いです。僕は人に肯定されて幸せを感じることが他の人より大きいのかもしれませんね。そのために頑張っていると言ってもいい。
現場に関わってくれる職人さんや業者さん、クライアントさんが”にんまり”と喜んで、それを見て自分も”にんまり”できる。「皆が幸せになる」のがいいんです。
しかし、それは想いだけでは実現できません。建築の仕事は人の気持ちや背景が多く混在している仕事です。一つ一つ全く違うので、慣れるということはありません。別の案件でうまくいったからといって、100%まかり通らない。
その難しさの中に突破口があって、その先にゴールが見えてきます。そのゴールに向かって同じレールに乗っていくことが、「皆が幸せになる」ために僕ができることです。
(終わり)
(前編はこちら)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:wowroom
撮影協力:wowroom
取材協力:斎藤拓哉(隠れ家ゲストハウス-Kakurega guesthouse-代表/空き家てらす)
インタビュー日:令和2年11月9日
○編集後記
齋藤さんとの出会いは一昨年(2019年)の秋でした。会津若松駅で待ち合わせて、そのまま現場へ。移動中の車では、齋藤さんの柔らかい性格もあって、すぐに打ち解けることができました。
その柔らかい性格や雰囲気は現場でも同じでした。施主の方と一緒に現場に隅々まで一緒に見ながら、合間合間で談笑していたのを鮮明に覚えています。取材で会津若松に滞在中、齋藤さんと共通する人と会うと「あー!康平さんね!」って、何だか嬉しそうな顔して語るんです。そう、皆“にんまり”していたんですよね。
空間を作るためだけの“その時”だけではなくて、関わった以降も皆“にんまり”する、それは齋藤さんが作る一種の空間なんだと感じました。
ただ、インタビューしていくと、齋藤さんのその柔らかい雰囲気にも見えない大変な背景があって、だからこそ「今の齋藤さんの優しさや周りへの配慮、誠意があるんだな」って思ったんです。
僕は建築の世界って、学生の頃からその道を極めた人たちが歩む世界だとずっと思っていました。でも、齋藤さんは違った。知識や技術がない状態で少しずつ現場で身をもって体感して、地道に自分で足を運んで関係性を築き、色々な人の優しさに背中を押してもらった…。
同じにしたらいけないかもしれないけど、僕自身と重ねてしまう部分が多くて、インタビュー中に過去に足掻いている自分を思い出してしまいました。今回の取材通して、一番背中を押してもらったのは僕自身だったかもしれません。
歴史的でいうと、会津と薩摩の関係は悪いイメージを持たれがちですが、僕の中ではまた齋藤さんや会津で出会った皆さんに“編集者”として会いに行きたい、そう思った時間でもありました。
齋藤さん、wow roomの皆さん、斎藤拓哉さん、現地でお世話になった皆さん、本当にありがとうございました。