“自分ごと”になる

就職活動の時期が終わりに近づいていたからか、就活サイトを検索しても残っている分野は飲食・介護ぐらいしかありませんでした。飲食業は父が反対する分野になってしまうので、残りの介護について調べてみることにしました。残念ながら「働きたい」と思える求人はありませんでした。

ただ諦めずに検索を続けていると気になる法人を見つけました。その法人は障害福祉を通じて“まちづくり”をしている法人でした。「福祉って生活そのもの、だから、まちづくりが必要なんだよ」というメッセージに惹かれエントリーすることにしました。そして、実習での出来事が「ここで働きたい」と思う決め手になります。

それは脳性麻痺のおじさんの食事介助をする内容の実習でした。僕が聞かされていたのは17時に集合し、おでん屋さんに一緒に行くことだけだったんです。しかし、そのおじさんは約束の時間を過ぎても現れず1時間遅れて待ち合わせ場所にやってきました。

一緒におでん屋さんに向かって歩いていると「このお店もうまそうだな」と言って色々なお店をふらふらと回ってしまう始末…。結局入ったのはカウンターしかないお店でした。

そこで、おじさんが自らお店の人と交渉し、カウンターで食べたい物を僕に介助してもらいながら食べる姿を見て思ったんです。
「介護って機械的だと思っていたけど、そうではないんだ。本人が望んでいくことに対して僕らがサポートしていくことが介護なんだ。何だか面白そう。」と。

障害のある1人ひとりの暮らしをサポートするということは十人十色の人生を疑似体験できる楽しさがあることも感じました。僕が障害福祉の道を歩み始めたのは「楽しさ」からだったんです。

しかし、そこで働いてすぐに、障害福祉の道に入ったことを後悔することが2つありました。1つは、重度の知的障害のある人を介護した時のことです。2人介護で支援する方だったのですが、一緒にいた先輩が席を外した途端、僕の中の常識を越えた行動を起こして、僕はうまく対応できませんでした。

2つ目は、気管切開をし人工呼吸器をつけている方の入浴介助をした時のことです。僕が少しでもミスをしたら、彼は死んでしまうという状況でした。そのミスに対する責任を負えないし、ミスをしてしまうのではないかという怖さも感じました。

「自分は障害福祉の仕事が務まるのか」という不安に覆われてしまったんです。でも、対応が難しいケースもあり不安な気持ちはあった以上に、障害福祉の現場で働く中で、障害のある人が普通に暮らす難しさがあることを感じたからこそ働き続けることができたんだと思います。

さきほど話に出た脳性麻痺のおじさんは一人暮らしです。全てのサービスが受けられているかというとそうではありません。制度が適用されない部分があるので毎月自己負担が発生している現実があるんです。

また、ホームヘルパーの実習で重度の認知症である方とお話する機会があった時に、彼女のよだれや排泄物の処理ができていない場に遭遇し、障害や病気があるだけで人権が無視されているケースがあることを知りました。

そのような制度的な障壁だったり、差別だったり、いま整備されていない現実が“自分ごと”になったんです。それは、障害のある人たちと一緒に生活や行動をしてきた中で、その人たちの声を代弁して一緒になって訴えていかないと変わらないと感じてきたからだと思います。

障害福祉の道に入った時は「楽しそうな仕事だな」と思ったけれど、3年やっていく中で「これは一生かけて取り組まないといけないな」という使命感に変わりました。だから、実家の家業を継がずに、障害福祉の仕事を続けようと決めたんです。

関係性をもつことで…

障害が“自分ごと”になるには、まず関係性を持つことが必要です。関係性があることで、その人は自分自身の課題を話してくれるでしょうし、関係性がないと本当のことを話してくれないと思っています。

だからこそ、僕は仲良くなることを大事にしているんです。仲良くなることで色んな悩みを相談するようになる。仕事としてその悩みを解決できるもの、そうじゃないものが出てきます。仕事じゃ解決できないものは活動として解決するようにしました。

障害のある知り合いのためにしたことが、彼以外の障害のある人たちのニーズを満たすことに変わっていったのです。仕事でもそうじゃないときでも「障害福祉」に取り組んでいた気がします。「世古口さんは障害のある人と一緒に何かしているね」とまわりから認識されるようになってからは、障害のある人たちから連絡がくるようになりました。

ある時、とあるイベントで知り合った15歳の子が悩みを打ち明けてくれたんです。
「実は、僕は心臓の病気があって、20歳までしか生きることができないんだ」って。

そして、その子の誕生日に「一緒に遊園地へ遊びに行こう」って誘ってくれたんです。本当に嬉しかった。福祉サービスという切り口ではなく、友人として一個人として繋がってくれたことはこの上ない喜びでした。

僕には脳性麻痺の友人もいました。その友人は親御さんが過保護だったこともあり、思いっきり遊んだことがなかったんです。その友人から「親がその場にいない状態で夜遊びをしたい!ライブに行ってみたい!」と思いを打ち明けてくれたので、「じゃあそういう場を一緒に作ってみる?」と友人に提案してみました。

そのやりとりがきっかけで『BYE MY BARRIR』という音楽イベントをその友人と一緒に運営していくことになります。僕は元々音楽好きでバンドをやっていましたし、友人のやりたいこととも近かったので“一緒に遊ぶ”ような感覚でした。

イベントを組み立てていくなかで、車椅子に乗っている人や耳の聴こえない人たちも楽しめる工夫も意識しました。その結果、障害あるなしに関わらず、みんなが同じ空間で楽しめる空間がつくることができたと実感しています。

「楽しそうなことをしているな」と思われがちですが、「夜遊びがしたい!」という友人の思いを叶えたい、ただそれだけでやっていたのです。『BYE MY BARRIER』をきっかけに障害に対して距離を感じていた人たちが、日常生活や仕事の場で障害のある人たちに対するアクションがあったことも、このイベントをやってよかったと思えます。

その後、僕は新卒で入った法人を28歳で退職しました。元々30歳になったら独立しようと思っていましたが、きっかけはアスペルガー症候群の友人でした。

後編はこちら

前編はこちら

話し手:世古口敦嗣(就労継続支援B型事業所 三休-THANK YOU!!!- 施設長
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和3年1月14日
インタビュー場所:就労継続支援B型事業所 三休-THANK YOU!!!-
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。