静岡県浜松市にて移動式コーヒースタンド『タダズミcoffee』の店主としてコーヒーを提供する傍ら、浜松市民の一人して、『浜松PPPデザイン』のメンバーとして、複数のまちづくりプロジェクトに従事されてる松島弘幸さん。そんな松島さんから、現在の動きに至るまでに背景や現在の葛藤等についてお話を伺いました。

思いが強くない自分

私は小さい頃から大人しいタイプでした。幼稚園の時に遊具で遊んでいたら、気の強い女の子に色々言われて泣いた記憶が印象として残っています。運動や勉強は得意ではなく、少年団や部活に入ってはいましたが、中心ではない端っこ、の立ち位置でした。

それらを始めた理由は「兄がやっていたから」「周りの仲が良い同級生がやっていたから」、そんなシンプルなことでしたし、気がつけばやっていた感じです。その中で必死に努力して、ポジジョンを奪いにいくとか、上を目指すという気持ちはありませんでした。

当時の自分は、誰かと同じことをやっても他の人よりも勝るタイプではないと思い込んでしまい、競争心がなかったんです。そんな自分に慣れてしまったのか、前に出れない自分や周りに勝てない自分に対して悔しい気持ちがありませんでした。「前に出るスペックがない」と自分にレッテルを貼っていたことも一つの理由かもしれません。

高校時代も小学校・中学校時代の延長戦のようなものでした。何かに固執することもなく、流行や周りの影響を受けて過ごしていました。結局、何をするにも、自分の意志ではなく、人がきっかけだったんです。

そんな私が興味を持ったのは映画でした。小学校の頃に父親がテレビで洋画を観ていた時に一緒に観る機会が何度かあり、その影響で中学生から夢中で映画を観るようになりました。

高校卒業後の進路について考える時期になると、映画の世界で仕事をしていくことを一つの選択肢として考え始めました。しかし、浜松で映画の仕事をすることに対してイメージがつかなかったことや、そこまで思いが強くなかったことから、建築の専門学校へ通うことにしたんです。

建築を選んだ理由としては、映画の影響もありますが、もともと建物や家の空間に興味があり自分の家を自分で設計してみたいなと想像することに興味をもつようになったんです。映画の仕事よりこちらが現実的という家族の勧めもありました。

しかし、実際、専門学校に入ると、元々高校時代から建築関係の勉強をしてきた人も居たり、入学開始の基礎の段階で早々にバイクの事故でしばらく休学したりと。勉強が得意ではない私にとって大変な日々ではありましたが、何とか卒業することができました。

当時、就職氷河期の真っ只中で、建築系も就職難な時代…。周りが就職活動をしているのに、私は建築の世界で仕事をしていこうという覚悟がありませんでした。そして、私の中に映画の世界に対して諦めきれない自分がいたんです。

浜松ではなく、東京というロケーションだからこそ、映画の世界に対するリアリティーがあったり、その時点で建築の世界に対して未練がなかったりしたことから、映画の専門学校に入り直すことになります。

“生きる”ことに向き合う

映画の専門学校では、授業を受けつつ、グループで作品を作ることの繰り返しで非常に楽しかったです。映画業界の方が講師として来てくれたり、映画現場へ実際に見習いとして行かせてもらったりする機会もありました。

専門学校を卒業すると、フリーとして映画製作の現場で仕事をさせてもらうことになります。その中で、私は映画ロケの計画を立てたりする現場コーディネートに興味を示しました。

私自身、映画制作の過程で、シナリオを作ったり、監督として指揮したりするというよりは、影として現場を支える側が向いていると思っていたんです。正直、休みがあまりなく、睡眠時間も短い現実があり、毎日仕事をこなすので精一杯でした。

それでも、期間が定められた中で、スタッフ間との関係性が濃厚でしたし、映画の専門学校へ通う前には全く想像できなかった世界を体験できたこと、そして何より全国ロードショークラスの世界に関われているということもあり、充実感でいっぱいでした。

映画の世界の大変さと充実さの間で葛藤している中、父が旅行先のチェコで事故のため亡くなったと連絡が入ったんです。

父は海外旅行が好きで、一人で色々なところに行っていました。チェコへ旅行に行く直前に、私が帰省したタイミングで父と顔を合わせており、元気で仕事をこなし、やりたいことをやっていた父の背中を見ていたので、言葉も出ませんでした。

チェコで父の葬儀等を済まし、今後のことを考え始めました。実家が病気持ちの母と中学生の妹の二人になってしまうので、自分が実家に戻ったほうがいいのではと思ったことから、浜松に戻ることにしたんです。26歳のときだったと思います。

父の死がきっかけで“生きる”ことに向き合うようになりました。それは、父の死が病気等ではなく突然だったこともあり、“自分ごと”として命がずっと続くとは限らないと感じたからです。

「人はいつか死ぬ、じゃ、何のために生きる?」

そんなことを考えていた時、テレビで地球誕生の歴史に関する番組が放映されていました。番組を観ていて「地球誕生からの歴史で人類の歴史はほんの僅か」でしかないことを改めて知り、あることを考えるようになったんです。

それは、地球環境について、です。ほんの僅かな人類の歴史で地球のエネルギーや資源を使い環境を悪化させてしまっている。人は暮らしのために環境を無視したまま…。

「何の為に生き何の為に仕事するのか?」「お金のために仕事をするのか?」「では、お金っていくらあれば満足するのか?」「一生使い切れないお金があったらどうなのか?」等、色々と突き詰めていきました。

例えば、好きな車を買えたり、好きなところに行けたりしたとして、それらを突き詰めて、さらに突き詰めて考えていったら“虚しさ”しかなかったんです。

「どんなに自分が欲しいモノが手に入っても、結局、自分の心が満足することは“それ”ではないんだな」って思いました。それは何故かというと、相手(人)が存在して初めて成立しますし、「“生きる”ってことは相手(人)のためなのではないか」という答えに辿り着いたからです。

そして、その答えに辿り着く過程で、人類が地球環境を破壊している状況を考えたとき、何か違うのではないかとも感じました。

“生きる”ことの本質を突き詰めていった結果、
「相手(人)のためでもあり、地球のために自分の命の時間を少しでも有意義に使えたら満足できるし、それはお金では変えられない」

そう考えるようになり、自分のことだけではなく、未来の子ども達や地球のことを意識して暮らしていきたい気持ちが強くなりました。それは同じように深掘りして考えて続けたら、きっとそこに辿り着く人は多いのではないかと思います。

私は映画などを通して日々想像することを自然としていたからこそ、人の暮らしや心の豊かさの本質を考えるようになったのかも知れません。

後編はこちら

話し手:松島弘幸(タタズミ coffee/浜松PPPデザイン
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:タタズミ coffee(浜松城公園内)
インタビュー日:令和2年12月14日
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。