広島県広島市にある『県立広島病院』の集中治療室(ICU)で専任の理学療法士として日々患者さんと向き合っている河村由実子さん。そんな河村さんから、理学療法士になった背景や現場を通して感じたこと、そして今後のことについてお話を伺いました。
認めてもらいたい
私は3人姉妹で5つ上の姉、私、2つ下の妹、そして両親と暮らしながら廿日市(はつかいち)で育ってきました。対岸には宮島が見えて、友人の実家が海の近くだったこともあり、小さい頃から海と宮島が身近だったなと思います。
そんな環境で育ってきた私ですが、小さい頃から悩みが一つありました。それは「どうしたら両親に気にかけてもらえるのか?」です。兄弟・姉妹が3人構成で真ん中だった人は似たような経験をされているかもしれません。
一番上の姉と一番下の妹は両親に気にかけてもらっていたのですが、真ん中である私は姉と妹に比べるとその感覚がしませんでした。だから「どうやったらアピールできるんだろう?」と考えていました。
色々考えた結果、良い子になる、ことにしたんです。一つ例を挙げると、祖母に手紙やイラストを送ったりしました。そうすることで、祖母はすごい喜んでくれましたし、手紙の返事を送ってくれたんです。
それがきっかけで人に優しさを与えたり、気遣いをしたりすることで、何かしたらの形で自分に返ってくることを知りました。そこからかもしれません。誰からに対して“与える”ということを意識し始めたのは…。
姉がテニスをやっていたことから家族で県内や地方で開催される大会の応援に行っていました。試合を観ているうちに「姉のようになりたい!近づきたい!」という気持ちが強くなってきて、中学校から本格的にテニスを始めることになります。
家で鏡を見ながら素振りをしたり、週2回は地元の指導者が主催している練習会に夜遅くまで姉と一緒に参加したりしました。そこまで練習をしていたのは、憧れている姉の背中を見ていたことで「こうやったら人に認められるのでは?」というところが根源にあったのかもしれません。
高校は姉も通っていたテニスの強豪校へ入学することになります。雑誌や全国レベルの試合を観ていたので「私も上に這い上がっていきたい」という気持ちがあり、朝練や自主練を積極的にやっていきました。
それでも、レギュラーに入ることは簡単ではありませんでした。中学時代、私が県大会レベルだったのに対し、周りは全国クラスの選手が大勢いたのですから。3年生が引退してからは、キャプテンを務めさせてもらうことになりました。
しかし、私にとってキャプテンの立場は嫌なものだったんです。実力もない、試合にも出られない、結果も出していない。そんなレベルだったのに「どうして私がキャプテン?」と思っていました。そんな状況が私にとって鎧のようなものだったんです。
インターハイがかかった個人戦で、私は負けてしまったことがあります。あと1ポイント取れば勝てる試合でした。でも、勝ちを意識してしまった私は、自分の思い描いたプレーができなかったんです。
団体戦もレギュラーには入れず、周りからは「キャプテンなのに団体メンバーに入られないのか」と馬鹿にされる始末。私は努力の報われない人でした。あの時に味わった心の痛みは忘れられません。
だからこそ、今、それが強いパワーにもなり、原動力になっているかと思います。人の痛みが分かる人になりたい、人を支える仕事がしたいと思うようになり、大学からはスポーツの世界から違う世界に踏み入れることにしました。
心の支えになりたい
高校時代、私がリハビリの道に進んだ原体験となった出来事があります。それは7つ上の従姉妹(以下:彼女)が25才の若さで亡くなってしまった時のことです。彼女は同じ街に住み、私が小さい頃から遊んでくれていたお姉さん的な存在でした。
私が高校生になると、社会人になっていて、朝電車が一緒になると、色々と話をすることもありました。しかし、ある時から、彼女は難病にかかってしまい、大学病院に入院することになります。入院当初は見舞いに行っていました。
最期に会ったのは、親戚の結婚式の顔合わせの時です。病院を少しだけ抜け出して、酸素マスクをつけ、何とか車椅子に乗っている状態でした。首元は痩せ細っていて、以前は真ん丸していた顔もゲッソリとなっていて…。
「普段通り接していいのか?何を話せばいいのか?」
そんな迷いが出てしまい、私は何も声をかけることができませんでした。本当は声をかけたかったのに。
その後しばらくして、彼女はこの世を去ることになります。葬儀の際、結婚式の顔合わせに一緒に同行していた方の姿がありました。その方は、大学病院のリハビリ担当の先生でした。
先生は、彼女が最後までリハビリで頑張って作っていた折り紙の作品をたくさん持ってきてくれたんです。それらは全て棺の中に入れられました。私はとても悔しかった…。
最後まで寄り添いたかったのに、不安や怖さが邪魔をして、最後の1年は病院に顔を出すことさえできなかったから。ただ、悔しさと共に滲み出てきた思いもありました。人の最期や、病気や障害を持った人に関わる仕事っていいな、と。
私の親族は教員である人が多く、子どもたちを育てていく教育という環境でした。人の始まりを教育ではやるけど、人の最期に関わる仕事も素敵だなと思ったんです。この原体験が、今、私が目の前にいる患者さんに全力で向き合い寄り添う理由かもしれません。
高校を卒業し、名古屋の大学に進学することにしました。大学ではスポーツの道ではなく、理学療法士になるためにリハビリテーション(以下:リハビリ)の道を歩むことになります。
リハビリは身体だけではなく、心に痛みを持った人たちも対象で、理学療法士は、その対象者の人たちと向き合い支えていくことが仕事です。私は高校のテニス部時代や、従姉妹が亡くなった時のことを考えると、私自身そういう心の支えとなる存在が欲しかったこともあり、自分が理学療法士になろうと思いました。
大学では日々実習と勉強でした。忙しかったけど、楽しかったです。元々スポーツばかりしていたので勉強は苦手でした。でも、勉強は裏切らないと思ったんです。スポーツはどんなに努力しても勝てないことだってあります。
その反面、勉強は努力した分、全部自分の引き出しになって、それが例えばテストの点数で数値化されて、結果にも繋がりやすい。そう実感したんです。高校時代と違い、努力を蓄積していけばいくほど、成長していっている自分を感じられることは良かったと思います。
大学卒業後の進路について考えている時に広島に戻るかどうか考えていました。元々向上心が強かった私は、どこか広い世界で学んだり経験を積んだりしてから広島に戻るのもアリかもしれないと直感的に感じていた時に、研究室の先生から提案を受けることになります。
それは千葉県にある大きな民間病院で働いてみないかというものでした。その病院に連絡を取り、見学をさせてもらい、次の日には入職試験を受けました。すぐに試験を受けた理由としては、ワクワクしたからです。
ワクワクと同時に「この病院だったら、自分の成長のために多くの経験を積めるかもしれない」と思いました。そして、2013年の春から千葉の民間病院で理学療法士として働くことになります。
(中編はこちら)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:宮島
インタビュー日:令和3年2月11日
※河村さんは令和3年3月末に取材時に所属していた病院を退職し、現在は関東へ拠点を移し、フリーランスとして活動されています(令和3年4月1日時点)。