実家は滋賀県彦根市にある明治38年創業の『長谷川林材株式会社』を営んでおり、現在、『編集する材木屋maru:su』として活動されてる・角佳宣さん。そんな角さんから、幼少期〜現在を通じて家業に対する思いや葛藤、見方の変化についてお話を伺いました。

僕は“継ぐ”んだろうか

僕は小さい頃から、実家の作業場や父の現場へ足を運んでいました。家業を意識していたとか作業の手伝いをしていたわけではなく、余った端材でオモチャを作って遊んだり、それをお風呂に浮かべたりしていました。毎年夏休みになると、父と一緒に端材を使って貯金箱を作っていたことが、父との楽しかった思い出のうちの一つです。このような環境で育ってきたことから、無意識にモノを作ることが大好きになっていました。

実家の材木屋周辺は、城下町で個人商店が多いエリアです。近所に住んでいた僕の同世代は、サラリーマン家庭ではなく、醤油屋さんや電気屋さんなど、個人商店を営んでいる家庭の子供が殆どでした。子供時代って遊びに行ける範囲が限られ、徒歩や自転車で移動できる圏内での世界が全てなんですよね。

だから「いつかは僕も父や祖父のように材木屋を継ぐんだろうな」という意識でした。継ぐと言っても、高校や大学を卒業したらすぐにというわけではなく、10年20年先のことだと思っていました。

しかし、両親の口からは「実家を継ぎなさい」「継がなくてもいい」等の言葉は一度も出たことはありませんでした。むしろ、「好きなことをしなさい」と言ってくれていたんです。

継ぐことに縛られない空気感は、伸び伸びした気楽なものがあった反面、何をするにも選択を全部自分に委ねられていることに戸惑いや辛さも感じました。

進路を選択する時期である中学校や高校では、家業を意識せず、偏差値表と睨めっこする日々でした。特にやりたいことがなく、周りの友人たちが勉強をしていたので、周りに合わせて勉強をしよう、というスタンスでした。

しかし、大学受験に失敗し、浪人生活を送ることになりました。学力が上がり、志望校を関西ではなく関東の大学を意識し始めた頃、2つの出来事がありました。

1つ目は、深夜に何となくアニメを見ていた時のことです。アニメを見ながら心底ワクワクする自分がいました。それは元々モノづくりに興味があったことからかもしれません。アニメの制作過程がとても気になり、その業界の仕事に興味を持つようになりました。

2つ目は、現役で関東の大学に合格した幼馴染を訪ねて東京へ遊びに行った時のことです。その幼馴染は、とても楽しそうに大学を案内してくれました。案内する姿が楽しそうだったことや、話をしているうちに、彼もアニメが好きだったことがわかり、東京の大学へ進学する後押しになりました。

世の中の人からしたら小さな理由かもしれません。でも僕にとっては、その幼馴染がいなかったら、アニメに興味を持っていなかったら、東京の大学へ進学する選択はしなかったかと思います。浪人生活は辛かったですが、何とか希望する大学に合格し、晴れて上京することになりました。

憧れとは違った現実世界…そこで背中を押してくれたのはフットワークが軽い同期の存在だった

東京の大学では社会科学部に入り、空間映像研究ゼミを選びました。このゼミを選択した理由は、モノづくりやアニメに興味があった自分にとって、「空間」と「映像」が名前になっているゼミを無視できるはずがなかったからです。

ドキュメンタリーやアーカイブといった記録としての映像を都内に出て街頭インタビューを行ったり、ブラタモリのように町歩きをしたりすることで制作しました。

キラキラした東京の世界に憧れていましたが、ゼミに入ってからは土着感のある世界に触れて、こっちの方が僕らしくて居心地のいいことだと自然に気づいていきました。

就職活動の時期になり、自分の中で軸が2つありました。1つは、モノを作る業界であること、2つ目は関西に帰って来れるきっかけがある企業であること、でした。結果、第1希望の会社に内定が決まりました。

入社したのは、空間デザインや博物館における展示の企画設計製作をしている会社でした。大学のゼミでカルチャーに触れてきた自分にとって魅力的で、ワクワクする気持ちで入社しました。しかし、現実はそんなに甘いものではありませんでした。

仕事内容は、官公庁営業でしたが、ひたすら上司の指示をこなす日々だったのです。正直、その会社で仕事をしていて楽しいと思ったことはありません。ただ、振り返ると、モノづくりといっても、完成した最後のキラキラした部分しか見ていなくて、それができるまでの過程や背景を意識していなかった自分が一番甘かったと思います。入社した2年目の夏には仕事を辞める決意をしました。

その時に、心の支えになってくれたのは同期入社の友人でした。考え方も似ていて、今後の相談をして一緒に悩んでくれたことで気持ちがとても楽になりました。また、彼はフットワークが非常に軽く、「行ってみないとわからない、やってみないとわからない」と思うタイプでした。

受け身な生き方をしていた僕にとって、彼から得られるものは多かったですし、会社の中でスキルやお金ではない、友人という存在ができたのは今の僕にとって大きな財産です。彼も後々、会社を退職しました。

僕は仕事を辞める決意をした時は、後先考えていない状況でした。「この会社で過ごした時間って何だったんだろう」って思うこともありました。でも、彼から影響を受けたフットワークの軽さは、次に繋がる伏線をたくさん生み出していくことを、その先知ることになります。

後編はこちら

話し手:角佳宣(編集する材木屋 maru:su
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:水辺の家、長谷川林材株式会社湖北の暮らし案内所 どんどん
取材協力:長谷川林材株式会社、湖北の暮らし案内所 どんどん
インタビュー日:令和2年7月22日・23日
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。