何をやりたいか、その答えを求めて動き続ける日々
仕事を辞めるまでの1年間は、土日を使って地元の滋賀に戻る生活を送っていました。情報収集や、現地で今まで関わったことのない仲間や友人を作ることが目的でした。その1年間で作ってきた関係性の中から、長浜市で木材の活用普及振興がミッションの求人募集に出会いました。早速応募し、そこでの仕事が決まりました。それが3年前のことです。
僕は材木屋の息子ですが、木材のことに関する知識は皆無でした。だから、県内外問わず、木に関する活動をしている人たちに会いに行くことにしたんです。そこで学んだり関係性を築いたりすることを、最初の1年間は重点的にしようと思いました。
長浜市内でも、知り合いを通じて縁側製作依頼や古材活用の相談もあり、少しずつ自分が何者かということを知ってもらうことができました。不思議なものです。受け身な生き方をしていた自分が動いた分、違う形として何かが返ってきたり、関係性を広げられたりしたのですから。
長浜で働き始めて2年目、ある大工さんのお手伝いをさせてもらうことになりました。その大工さんは、若い頃に自転車で世界1週をした経験があり、芯が強く、大工というよりも思想家に近いタイプでした。
僕はお手伝いをさせてもらうまで、「自分はファシリテーターやコーディネーターの肩書きを名乗り、間に入って動いていこう」と思っていたのですが、大工さんからは「何で自分で手を動かして、やろうとしないんだ、そもそも考え方を改めた方が良い」と言われました。その時に気づかされたんです。僕は“頭でっかち”なんだって。
大工さんと接しているうちに「この人と対峙するのは20〜30年早かった」と思ったり、自己嫌悪になったりする自分がいました。しかし、その大工さんは思考や経験が足りない僕と向き合ってくれて、色々と叩き直してくれたんです。それは、その大工さんが現代の若者に対する問題意識や未来を憂う気持ちが強い人だったからかもしれません。この時間を通じて、一歩引いた目線で物事を見れるようになったかと思います。
「手伝わせてほしい」
その一言を大工さんに言わなかったら、この感覚を身につけることはなかったでしょう。
細く長く、ゆっくり半径数メートルの範囲で、できることを
今の環境は前職と違い、自分の意思でやれることはできています。でも、自分が本当にやりたいことや軸って未だにわからないんです。やりたいことがない・ハングリー精神がない、何でもできる環境にいたからこそ、それらを痛感しています。
去年の春に結婚したのですが、その時期くらいから「いつまでも自分探しをするのは、今の自分には違うのではないか」「やりたいことやハングリー精神がないのを気にしても仕方がない」と思うようになってきました。
長浜で仕事するようになって最初の2年間はひたすら動いていましたが、ここ1年は気持ちが浮つかなくなり、冷静に今後のことを考えている自分がいます。昔に比べたら、色眼鏡は薄くなったかもしれません。
滋賀に戻ってきてからは長浜の仕事をしつつ、今まで触れることのなかった家業の材木屋について、継ぐことからではなく、「“継ぐ“って何だ?」と向き合うことから始めました。「“継ぐ“の手前」と言えるかもしれませんね。
ファーストステップとして、東京で暮らしている妹と話をし、家業に根ざしたユニット『maru:su』を結成しました。そこで、昔から使われている丸に“ス”をロゴマークに、名前をユニット名に使うことにしました。結成日は3年前の10月20日でした。その日は、父の誕生日でもあり、昔から30年くらい事務員として会社に尽くしてくれた方が退職した日でもありました。
“継ぐ”って言葉の意味は広い…大したことはできていませんが、思いを絶やさず向き合い方を模索し続けることで、狭義ではない“継ぐ”動きができたらと考えています。
最近は、妻との新居について、材木屋の事務所を改修した場所に住む計画を立てています。それまで紡がれてきた家業、家系、家を繋いでいきたい…そんな気持ちが結婚した時期くらいから芽生え始めました。
同じ時期に、別の場所にあった工場を閉鎖にしたことや、ずっと働いてきてくださった職人も退職し、この1年で家業を取り巻く環境が大きく変わってきたことも理由です。具体的な計画はまだですが、材木屋が歩んできた道のりだけではなく、これから関わっていく人たちとのプロセスも大事にしていきたいです。
両親は未だに家業について“継ぐ・継がない”の話をしません。おそらく、これからもそうでしょう。家業を継ぐことの大変さを知っているし、何より自分のことを思っているからこそかもしれません。家業にどう関わっていくかわかりませんが、目の届く半径数メートル以内でやれることを細く長くやっていくだけ、僕はそう思います。その範囲の世界が良い方向に変わっていけば嬉しいですね。
僕は「人生は壮大な伏線回収だ」と自分に言い聞かせています。それは長浜に来てから気づきました。目の前のことを一生懸命やるだけでもいい、それがどこかで小さくても実を結ぶことがわかってきたんです。そう思えたきっかけをくれたのは、前職の同期友人から影響を受けた“フットワークの軽さ”でした。
それを僕が実践していく中で、端材でオモチャを作っていた幼少時代、偏差値表を睨めっこしていた青春時代、アニメに興味を持った浪人時代、町歩きと街頭インタビューをしていた大学時代、楽しいと一度も思えなかった営業マン時代…バラバラに見えるピースが、実は見えない伏線で繋がっているってわかったんです。
おそらく、自分の中で気付けていない伏線もたくさんあるかと思います。まだまだ未熟だけど、焦る気持ちはありません。たとえ、それが他の人よりペースが遅くても、目の前のことをこなしていく…その先に見えてくるものがきっとあるでしょうから。
(終わり)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:水辺の家、長谷川林材株式会社、湖北の暮らし案内所 どんどん
取材協力:長谷川林材株式会社
湖北の暮らし案内所 どんどん
インタビュー日:令和2年7月22日・23日