青森県十和田市にある居宅介護支援事業所・訪問介護事業所・小規模多機能ホーム・生活支援等の介護事業を行っている『合同会社くらしラボ』。同社代表で主任ケアマネージャーの橘友博さんに、介護の道を歩むようになったきっかけや、独立し、現在の事業を行っている経緯等を伺いました。

何やってんだよ、俺

私の実家は現在運営している『小規模多機能ホームくらしの家』のすぐ近くにあります。両親と祖父母を含めた3世帯で暮らしていました。両親は自営業で洋品店を営んでいて、家にいることが少なかったため、祖父母に面倒をみてもらっていました。

祖父母との時間のほうが両親と過ごした時間より長かったかもしれません。孫に甘いおじいちゃん・おばあちゃんって多いですよね。私の祖父母も同様でして…。私は大分甘やかされていたので、「自分のやりたいことはやりたい!」と強く思ってしまうワガママな性格でした。

体格が大きかったので、小学校では吹奏楽部でトロンボーンを弾いたり、柔道もやっていました。中学校に入ると、自分で言うのもおかしいかもしれませんが、めっちゃヤンキー、だったんです。今、介護の世界で仕事をしている私を見て、当時の同級生にびっくりされるくらい…かなり悪い奴でした。

ヤンキーだったとはいえ、悪いことばかりだけじゃなく、柔道部でも文化祭でも体育祭でも全力で楽しんでいましたがね。目の前のことを楽しみたい、誰かに注目されたい気持ちが強かったんです。


(※写真右上が橘友博さん)

高校に入ってからは部活に入らずに、極真空手を始めて、3年間みっちり地元の道場で練習しました。地道な努力が身を結び、県大会では優勝し、何と全国大会ではベスト8に入るくらいに。結果を出して過信があったのか、高校卒業後は東京でK-1道場に通ったのですが、そこあたりにいる大学生にボコボコにされて、それがきっかけで格闘技は辞めてしまったんですけどね。

高校に入った時は福祉や介護の道のことは全く意識していませんでした。私の通っていた道場には小さい子供たちも来ていて、子供たちに教えたり一緒に遊んだりするのが楽しかったんですよね。そのうちに「保育士になろう」という思いが強くなったことや都会への憧れもあって、児童福祉を学ぶために東京の専門学校へ行くことになりました。

専門学校に入り2年目の夏、実家から祖父が癌になり入院したと連絡がありました。ちょうど夏休みだったため長期で帰省し、祖父のそばにいることにしたんです。癌の影響か、祖父は時々痛みを訴えて苦しそうにしていました。しかし、私は何もすることができませんでした。看護師さんが駆けつけてくれて、背中をさすったり、医療的措置をしてくれました。

それを見て思ったんです。「東京の学校で福祉の勉強をしているのに、おじいちゃんに何もしてあげられない。何やってんだよ、俺」って。福祉といっても児童福祉の勉強をしていた私がそう思うのはお角違いかもしれませんが、何もできないことの無力感と悔しさの思いでいっぱいでした。そこからです。介護の道を意識し始めたのは…。

ただ、最初は使命感から介護に対する思いが芽生えたわけではありません。「苦しんでいる祖父に対してできなかったことを、まずは学んでみよう。あの時、知識や技術があれば何ができたんだろう」という思いからでした。時間やお金のことを考えると、介護に関して学ぶ学校に入り直すのは現実的ではなかったことも理由の一つです。

色々考えていると、当時介護保険制度が始まり、父の知人が地元の介護施設の関係者だったため、そこに就職し、まずは介護職員として介護の道を歩むことになりました。ちょうど20年前のことです。

ワクワクできるかどうか

介護職員として就職しましたが、最初は何もかもわかりませんでした。実践をしていく中で先輩たちに教えてもらい、介護のことを学んでいきました。就職した当初は、介護の仕事をずっと続けるつもりはありませんでした。まずは3年働いて、祖父に対してできなかったことを学んだり、介護福祉士の資格を取得したりすることを考えていたので、3年経ったら別の仕事をしようと思っていたんです。

祖父のことがなかったら、おそらく都市部で働いていたでしょうし、介護の仕事をしてみようという気持ちにもならなかったかと思います。そんな思いとは裏腹に3年経つと、仕事が楽しくなっている自分がいました。

デイサービスで私たちスタッフが場を盛り上げたり、利用者さんの希望を元にプランを立ててお出かけしたりすると、皆さん喜んでくれて…それに加えて、同じ職場内のスタッフにも恵まれていたことも大きかったです。専門学校では児童福祉の勉強をして、介護の仕事をずっとしていくつもりがなかった自分が、まさかこんなに介護に対して、のめり込んで楽しい気持ちになることは全く想像もしていませんでした。

結局、3年経っても介護の仕事は辞めずに、介護福祉士の資格を取得した後は、さらに実務を積んで27歳の時にケアマネージャーの資格も取得することになりました。その後は、35歳までケアマネージャーとして介護施設内だけではなく、施設の外にも多く足を運ぶことになります。

ケアマネージャーになってからは、直接介護するのではなく、計画を立てて、利用者さんが家で生活できるようにお手伝いするという仕事をさせてもらいました。数多くの現場で、利用者さんや家族が「体の状態が悪いから、もう家で生活できない」と思ってしまう場面に遭遇することがありました。

そんな状況でも、利用者さんにとってフィットするマネジメントを行い「こういう方法を使えば、住み慣れた家で生活できますよ」と選択肢を掲示することで、利用者さんが望む今までの暮らしをすることができる可能性が出てきたんです。「施設に入らないといけない」と思って絶望していた利用者さんや家族が喜ぶ顔を見れることが一つの喜びでした。

もう一つ変化がありました。それは、施設外との人たちとの関係性を作っていけたことです。ケアマネージャーは、目標や目的に沿って、利用者さんが望む生活を実現するために様々な介護サービスを利用できるためのケアプランをという計画を作ります。その過程で、自分が所属している以外の団体の同業種や異業種の人たちと一緒に話し合いを重ね、その人にとって最適なサービスを決めていくのです。

次第に他の事業所の人たちとも仲良くなり、一緒にお酒を飲んだり、イベントをやるようになりました。最終的には、『ライフリンクとわだ』という任意団体を創り、病院のドクターも含んで研修会や飲み会を開催し、それぞれの価値観に触れスキルアップしていける関係性を構築していったんです。

ケアマネージャーになってからは、利用者さんだけではなく、地域や自分自身のことも考えられるようになりました。介護の仕事を3年で辞めるつもりが、児童福祉のことを考えることもなくなっていて、ワクワクしている自分がいたんです。“ワクワクできるかどうか”、介護の仕事を始めてからのモチベーションはそれだけなんですよね。

そういう状況の中で、私が感じていた違和感や芽生えてきた感情が独立への後押しをしてくれることになります。

後編はこちら

語り手:橘友博(合同会社くらしラボ 代表 兼 主任ケアマネージャー)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:小規模多機能ホームくらしの家
インタビュー日:令和2年10月7日
取材協力:合同会社くらしラボ
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。