誰かに導かれる道は、旅そのもの

日本に戻ってからは、経営面を学ぶためにベンチャー系の会社と、実際お店を経営する経験を積むために飲食店の店長として働きました。飲食店で働いている時は、個人としてスペイン料理についてレシピ本を見て勉強し、SNSで料理の写真をアップしていました。僕の中で、ずっとスペインバルの光景が頭に残っていたからだと思います。

そのようなことを続けていると、友人から「試食会をやらないか?」と声をかけてもらいました。『1dayバル』というイベントをイロハニ堂で開催させてもらったんです(※)。参加者は10人くらい、料理7品とお酒付きの内容で、それは自分が作った料理を出して、お金をいただくという初めての経験でした。自分で料理の内容や値段を考え、実際に作った経験は自分の自信にも繋がりましたし、そこから、ケータリングなどの個別依頼を受けるようになったんです。

その時期くらいから、新潟市内に自分でお店が運営できるような物件がないか探していました。それと同じ時期に新潟市内にオープン予定のゲストハウスバーの料理担当の話もいただきました。そこでは半年程お手伝いをさせてもらい、その後は一旦実家へ。

2ヶ月は特に何もしていなかったのですが、内野にある祖父の味噌醸造のお手伝いをしていた時に、親戚のおばさんから、とある物件について話を聞きました。「以前、魚屋だったところが空き家になっているから、そこを使えないか聞いてみようか?」って。オーナーの親族の方とお話させてもらう機会をいただき、そこを借りれるようになりました。おばさんから話があるまで全くアテがなかったので、それは夢のような感覚でした。

場所を借りれることになりましたが、どんな形態にするかも、内装も、お客さんに出す商品も全く決めていない状況でした。人手が足りなかったこともあり、SNSでイベント形式にして、DIYを色々な人と行いました。すると、地元の高校生や友人、初めましての人、建築の学生さんなど、結局50人くらいお手伝いをしてくれたんです。重いものを運び、ペンキを塗り、掃除を皆でしていく中でお店の雰囲気を決めていきました。

ゴールがあってそこから逆算していくデザインとは違い、町の古民家から見つけてきたものや元々魚屋にあったもの等を組み合わせながらコラージュしていく感覚の作業でした。常に変化させながら空間を作り上げていくこと…この感覚は今でも意識しています。

お店として借りた場所は、屋号が『藤蔵』といって、7年前まで6代続いた魚屋さんでした。魚を売る・焼くことから、町の祝い事や冠婚葬祭で仕出しにして売っていました。だから、世代が上の町の人たちにとって『藤蔵』は日常にある身近な存在だったんです。

今お店に来てくれるお客さんの中には「藤蔵さんのこと、知っているよ」「店主はこんな人でね…」「うちは藤蔵さんに仕出しを頼んでいたんだ」など、僕が知らないエピソードを色々と話してくれます。今まで知らなかった町のストーリーを聞くのはすごく面白いなと思います。そして、数ヶ月かけて、色々な人の手を借りてお店が完成しました。以前魚屋さんだった『藤蔵』さんの名前を使い、お店の名前を『ウチノ食堂』と名付けました。

新潟に帰ってきて、お店としてオープンするまでの過程、そして今もですが、一種の旅のように感じます。それは、想定もしていなかった誰から導かれるかのように…。

予期せぬ他者との出会い

「なぜお店を食堂にしたのか?」
それは、新潟にあんまり定食を食べられるお店がないことや、内野町には味噌屋さん・豆腐屋さん・お米屋さんなど町で作られているものが多いことから、それを合わせて食事を作るなら定食が一番やりやすい、それなら定食=食堂かなって思ったんです。

メニューの中には『イツモの定食』といって、僕が今食べたいものを季節と気分に応じて決めたものがあります。例えば、「今日は生姜焼き定食です」と告知してお店に来てもらう、それも一つ手段だと思います。しかし、今日の定食が生姜焼きという先入観があると、それは生姜焼きにしか見えないし、味もわかってしまうんです…。僕は敢えて告知せずに、初めて目にして口に運んでもらって味覚で感じてもらうことを大事にしています。

意外にお店に来てくれるお客さんは内容がわからないけど、『イツモの定食』を注文してくれるんですよね。内容を知らないまま食べに来ていることってライブ感があって面白いし、この感覚を通じて何か一つでも持ち帰ってほしい思いもあります。

何だか似ているんです。大学時代に初めてタイを旅した時の感覚に。見たことない食べ物を初めて見たり、料理名を聞いてもわかなかったり、口にして初めて味覚がわかったり、選択したもので後悔したり…お店を始めた時は意識していなかったけど、今はそんな気がしています。

お店を始める前から、予期せぬ“他者”と出会う場所を作りたいと考えていました。“他者”はヒトだけではありません。“ヒト・モノ・コトが交差する”。例えば、お店に来てくれたお客さん同士が出会う、お店で流れている音楽を聴いて「いいな」と感じてCDを買う、お店に置いてある本を読んで「ここに行きたい」と思うとか、何気ない小さなことでもいいんです。

店主は僕一人ですが、来てくれるお客さんとはフラットな関係で、お互いにウチノ食堂を作っていると思っています。僕は店主として、お店に来てくれた人はお客さんとして、それぞれ『ウチノ食堂』を育てていけるのは嬉しいことです。

そういった意味では町も同じかも知れません。内野町では、ビジネスとしてやっている人もいますが、商売や生業でやっている人が多いです。ビジネスはお金の仕組みを作って誰が入っても回せることを示すかと思いますが、商売や生業は人に寄り添ったものだからそうはいきません。例えば、ある職人さんがいて、その人じゃないと成り立たないことがある。

人が生まれて死ぬ以上は、その商売や生業が無くなっていくことは、ある程度は仕方がないと飲み込んでいます。ただ、町の先輩たちの背中を見て、僕ら世代や次の世代が何かを作って次に繋いでいけると思っています。今まで作ってきた人やモノを見て、それを見た人がこれから何を作っていきたいか・やりたいかを思うこと、それが僕が今大事だと感じていることです。

僕がウチノ食堂をやったことによって、たとえお店が無くなったとしても、誰かがお店や僕の背中を見たことによって、何かをやりたいというきっかけになっているのなら、町として循環しているし、それでいいのではないかと思っています。きっと町は、その連続なんです。

人に何かに興味をもってもらうことは簡単ではありません。それでも、食堂を通して、何かに興味を持って何かをやりたい意思を持てるきっかけを一つでも作れたら…そんなことを模索する日々です。

※イロハニ堂は2016年10月まで内野町で営業、今は上越を中心に出店営業しています。

(終わり)

前編はこちら

語り手:野呂巧(ウチノ食堂
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和2年9月11日
インタビュー場所:ウチノ食堂
編集後記
高校3年の時に、バックパッカーの本を通じて海外へ行きたい気持ちが強くなる、その海外へ旅したことで知らなかったことをたくさん知る、新潟では店長の仕事や、1dayバル、お店を作っていく行程、ウチノ食堂での光景は常に“予期せぬ他者”が野呂さんを導いてくれると感じました。そして、お店に来るヒトだったり、そこで起きるコト、あるモノもそう。“予期せぬ他者”によって何かが起きている。

そのような背景から、「予期せぬ他者が導く」をタイトルの最初に入れました。導くのは、ナニカ(ヒト・モノ・コト)の見えない未来。それはきっと誰にでも生きてて経験することだと思っています。ただ、それを意識しているか・していないかの違いなのではないかと。僕は、若いうち(学生時代、20代)から何かをしたいとか、具体的な目標を持って生きてきていませんでした。

別に、それが悪いと思っているわけでもありません。日々、生きていくために、仕事をして、余暇でお酒を飲んだり、どこかに旅行に行ったり、それでも十分楽しいと思っています。ただ、その中で出くわす“予期せぬ他者”に僕は救われて、背中を押してきてもらって、そこから具体的にこんな道を歩んでみたいって思うようになりました。“予期せぬ他者”って自分が住んでいる外の世界にあるものだと思っていたけど、案外自分に住んでいる町にも溢れているんですよね。

『ウチノ食堂』には、今まで野呂さんが足を運んできた外の世界や内野で繰り広げられているナニカが入り交じっていて、この場所に来るだけど旅をしているような感覚になります。そして、野呂さんだけではなく、食堂を利用するお客さんや、食堂を使って何かやっている人からもそれぞれの世界が広がっているんです。食堂ってご飯を食べる場所という認識だったけど、ヒトだけではない、違うナニカとも出会える場所でもあるんだ、と教えてくれたのは野呂さんでした。

そこから、地元の食堂や喫茶店でお店の人や常連さんとカウンターでご飯食べながらお話するようになって、僕自身の住んでいる町での景色が一変しました。鹿児島を離れている今でもお互いのことをLINEで近況報告し合っています(笑)

野呂さん、ありがとうございました。次、新潟に来た時も、ご飯食べに行きますね。

編集長 上泰寿

上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。