後悔したくない、“今できることをやる”という選択

入社した会社は、高い仕事のレベルを求められる社風で、私自身Webが慣れていなかったこともあり、勉強や無理をしないと追いつけない状況でした。成長できていない・難しい案件にチャレンジできていない自分に対して、もどかしさを感じてばかりいたんです。

それでも、常にクライアントの期待以上の結果を出すことを目指して頑張っていました。ある時、自分の気持ちを察し、働きぶりを評価してくれた上司が大きな案件を私に振ってくれたんです。それは、会社としても実績が少ないジャンルの案件でした。

とにかく現場で手を動かして模索すること・自分が主となり周りに仕事を振る、その過程もですが、自分のアイデアが形として落とし込まれるのが初めての経験でしたが、それを楽しんでいる自分がいました。

性格的なところもあり、誰にも「やれ」とも言われていないのに、納得するまで熱量を注いでやりました。学生時代とは違い、対価がある中で、このような経験ができたことはとても大きかったです。クライアントも喜んでくれて、自分が会社の中でしっかり認められたと感じれるきっかけにもなりました。

会社で色々な案件を任せてもらいデザインが楽しいと思い始めたとき、2つの事が『キクノヤ』のことを今までより強く意識し始めさせました。1つは、私も兄弟も違う道を歩んでいる状況で、お店を継ぐ人がいないこと、もう1つは、祖父の年齢が80歳を超えてしまっていたことです。

祖父の口から年齢のことを聞いて「流石にこの状況はよくない、祖父が作ってきたお菓子の味が途絶えてしまう」と思いました。色々な人に相談したり、時には占いにも行ったりして、悩み続けました。結局、頭の中で出てきたのは“何もしないで後悔する自分”でした。

お菓子の勉強をしていない、『キクノヤ』に戻っても何もできないのではないかという不安も勿論ありました。それでも、「一回今できることをやってみよう、今やらないとずっと後悔してしまう」という気持ちが背中を押してくれました。

私なりに考えたアクションは、仕事を続けながら、土日は祖父からお菓子作りを学ぶこと・インスタグラムでお店の発信をすることでした。仕事と『キクノヤ』のどちらかをセーブするのではなく、どちらも頑張る、それが体質に合っていると思ったんです。

しかし、現実は甘くなく、実家で学ぶ時間を十分に作れなかったり体力的にきつかったりする部分もあり、約4年間勤めた会社を辞めることにしました。アクションを起こす中で、もっとお菓子作りやお店のことを勉強したい気持ちが強くなったことも理由として挙げられます。

私は4代目、そして、アートディレクターという立場で『キクノヤ』に関わることになりました。ただ、私の中で引っかかっているのは“継ぐ”という言葉の認識についてでした。祖父や父の感覚だと“継ぐ”というのは、お店の経営を今の状態で維持することだと思うんです。

でも、私の中では、時代や環境が変化していく中でそれはちょっと難しいと思ってて、“残す”という言葉を使っています。具体的にどうなっていくか、まだイメージは付いていません。祖父が作ってきた全てではなく、自分の色ものせながら、できる範囲で残していくとか、お店の形態を変えながら営業したりと、小さい工夫はできるかと思います。

誰もが居心地がいい『キクノヤ』へ…そう思わせてくれたのは祖父の物腰の柔らかさだった

会社員のデザイナーとして働いていた時は、その先を見据えて計画をしたり、事前に見積ってプロジェクトを企画したりして動いていました。なので、事業などは5〜10年後こう在りたいと見据えた上で計画を立てるべきだという思考が自分の中にはあります。

しかし、祖父母がいつまで現役でいられるかわからない、何年後を見据えることのイメージがつかない…見据えたところで、自分の中では、それが良いことかどうかの見極めも難しい。一つだけ言えるのは、祖父母や父が出来る限り、やりがいをもって『キクノヤ』に居てほしい思いが私にあること。

長年、祖父母や父が築いてきたスタイルを尊重して、皆が働きやすい方法で小さく改善していき、元々あったお店の良さはそのまま残せるようにしたいと考えています。私は、プロモーションや発信の方法、お菓子の細かい部分の見せ方、ターゲットに対するアプローチ等で活路を見出す立場で関わっています。

『キクノヤ』に関わるようになってからの祖父母や父の一番の変化は、アートディレクターとして自分を認めてくれるようになったことかもしれません。発信や広告の切り口を変えたことで、今までのお客さんにプラスして新規のお客さんが来るようになったり、前年に売れなかった商品の見せ方を変えたことで、その商品の売り上げが上がったこと等、成果は1つ1つ小さいですが、変化が目に見えるようになってきたからだと思います。

戻ってきたばかりの自分が、長年作り上げてきたお店のスタイルに口を出すことは、時には、心苦しさだってあります。変えていくことでスタッフの負担を増やしてしまうのではないか、長年お店に通ってくれた常連さんに戸惑いを与えてしまうのではないか…そんな不安だってあるんです。

そんな不安がある中で、今一番意識しているのは“委ねる”“決めすぎない”ことです。小さい頃から頑固だった自分にとって、これは今までになかった変化でした。以前の自分だったら、色々物事を先にどんどん決めていって、先走っていたかもしれません。

どうして自分にそんな変化が起きたのか、それは祖父の物腰の柔らかさ、からだと思っています。『キクノヤ』に関わるようになって、一番時間を共有しているのは祖父です。祖父からはお菓子の作り方や志、思いを学びたい気持ちもありますが、同時に、祖父の人間性を近くで触れたいという気持ちが強くあります。

私が「こうしたい」と祖父に突飛なアイデアを出しても、それを否定せず、長年の経験から的確なアドバイスをしてくれるんです。新しきに寛容な部分もありつつ、意見を通せない頑固な部分もあって、自分と同じ血を感じることもありますけどね。こんな風に歳を重ねたい・人生を歩みたいと思える人との時間は本当に貴重なものとなっています。「大人になっても、自分ってこんなに変われるんだ」と自分自身でも驚く日々です。

今年で『キクノヤ』は創業86年になります。私の中では、創業100年を迎えることをひとつの目標に、職人として修行しつつ、アートディレクターとして取り組んでいきたいと思っています。そこに辿り着くまで、たくさんのハードルがあることも覚悟の上です。それでも、お客さんにとっても、『キクノヤ』で働いている私たちにとっても居心地が良いお店づくりをしていくことで、その先にある“残す”というものに繋げていけるのではないか…私は、そう信じています。

(終わり)

(前編はこちら)

語り手:小林知史(和洋菓子キクノヤ 4代目/アートディレクター)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:和洋菓子キクノヤ
撮影協力:和洋菓子キクノヤ、小林恒一(和洋菓子キクノヤ 2代目)
インタビュー日:令和2年8月6日
編集後記
僕が初めて『キクノヤ』を訪れたのは昨年の9月でした。 名古屋から近鉄線で1時間くらいかけて伊勢若松駅へ。そこから徒歩5分で『キクノヤ』はありました。 その時が今回取材させていただいた知史さんとの初対面でした。

最初に連れて行ってもらった場所は祖父・恒一さんが和菓子を作っている工房。そこでは丁度、恒一さんが餡子を丸めていました。一個一個の餡玉が、綺麗で、かつ、その中に優しさに包まれているようで、食べるのが勿体無いと思えるものでした。その餡子が使われた和菓子を帰りの電車で美味しくいただいたのを今でも鮮明に覚えています。

今回の取材では、ありがたいことに二人が餡子の入ったお餅を作っている場面に立ち会うことができました。そこには、二人が向かい合いながら、笑顔で何気ない会話をしたり、お菓子のことで「これは○○じゃない?」って真剣な表情でアドバイスし合っていたりしている姿が…。

去年初めて食べた『キクノヤ』のお菓子に入っていた餡子には、餡子そのものの柔らかさだけじゃなく、恒一さんと知史さんの二人の柔らかい姿勢や思いが一杯詰まっていたんだなって、取材しながら感じました。

僕は元々頑固者の人間でした。ただ、以前よりは柔らかくなったのではないかと思っています。大人になってから自分を変えるって簡単なことではない。それでも変われたのは自分と向き合ってくれる・受け止めてくれる身近な存在がいたからかもしれません。それに気づいたのは東京から戻ってきてからでした。身近な人たちと繰り返される何気ない時間の中で、自分がいかに頑固だったのか・一人で抱えようとしていたのか痛感しました。

知史さんの取材をしながら、昔の自分、そして今に至るまでの自分を思い返してしまいました。何が正解なんてわからないけど、それでも、少しでも柔らかくなったことで自分の中の選択肢が広がって、気持ちが楽になったことは間違いなく言えます。それを改めて再認識できる取材だったかと思います。 知史さん、恒一さん、『キクノヤ』の皆さん、ありがとうございました。鈴鹿に行くことがあれば、お菓子を買いに行きますね。また餡子入りの饅頭を食べたいな。

編集長 上泰寿

上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。