富山県氷見市久目地区を中心に、山仕事や畑仕事、蜂の巣駆除、事務作業代理、イノシシ解体など、何でも屋『暮らしお助けサービス「よろずや久助」』として活動されてるサントス佐藤文敬さん。そんなサントスさんから、何でも屋をするに至った背景を幼少期から学生時代、社会人を通したストーリーを交えてお話を伺いました。

山形で見つけた、田舎の隙間

私は小学校に入る前から体が周りの子供たちよりも大きく、力も強かったため、地元では一目置かれている存在でした。小学5年から野球を本格的に始めて、中学校に入る頃にはプロ野球選手になりたいと思っていました。

雑誌で元大リーガー(当時は日本のプロ野球チーム所属)の野茂英雄選手が特集されている記事を見て、私と同じくらいの体の大きさで活躍していたのを知り、自分にも可能性があると感じていたからかもしれません。ただ、身長が中学校以来伸びなくなったことや、甲子園で全国クラスのプレーを観戦し、レベルの差を痛感したことから、プロ野球選手になりたい気持ちが冷めていったんです。

高校に入学するときは野球のこと以外何も考えていなかった自分が、大学進学選択時に興味を持ったのは地球環境問題でした。具体的にやりたいことについては、「大学に入ってから見つければいいのでは」と考えていました。

埼玉の大学へ入学し、周りの人からアドバイスを受け、社会学を専攻しました。私の思いとしては、サラリーマンとして会社勤めする選択肢はありませんでした。研究室の先生は差別問題を専門としている人でしたが、研究室の先生から「まずは研究したいこと、関心がある子じゃないと続かないし、面白くない」と言っていました。

先生の言葉を聞いて、私は「この研究室がいいな」と思い、その先生の研究室を選択しました。大学2年になると、大学を辞めることを考え始めていたのですが、その時、ある話が知人から舞い込んできたんです。それは、山形県長井市の農家へ1年程行って手伝いをしないかという話でした。

当時の私は、いかに環境に負荷をかけずに加害者になることなく生きていく道はどういうものがあるか模索していて、選択肢の一つとして出てきたのが農業だったんです。農業をやったことがない、周りに田んぼや畑がない環境で育ってきたため、野菜がどういう流れで作られているのか見たことがなかった私は、大学を2年間休学して、山形に行くことを決めました。

農家の菅野さん一家にお世話になりながら、野菜作りや百姓の生き方、日本の農政等を学びました。これが私にとって、人生の第二の起点でもあり、氷見に住み始めたことや活動にも繋がってきます。

菅野さんのところ以外でも、田んぼの時期は田んぼ農家の手伝いに、トマトの時期にはトマト農家の手伝い、スキーの時期にはスキー場のアルバイト、ホップ農家の摘み取りの手伝いなど、季節に応じた仕事の依頼があって、若者であり、かつ、時間がある自分だからこそ、色々と声がかかりました。そのとき思ったんです。「会社勤めしていなくても、田舎で時間に融通効く人間がいれば仕事が舞い込んで来るのでは」って。田舎には、仕事の種となる隙があることを肌で実感しました。

山形で過ごした時間は、大学に復学してからも活きてて、社会学で扱っている話もわかるようになってきました。「あーこういうことか」って。具体的な実験を重ねて抽象的な部分だけ抜き出し、定式化・理論化する…そのバックグラウンドでは膨大な現実として出てくる実例があって、その共通する部分だけ取り上げて公式化されていることに気づいたんです。

そこからは、社会学の勉強が面白くなってきて、授業に出てもわかるようになってきました。

踏み入れたことのない世界で掴んだ感覚

大学卒業後、正直、働きたいと思える会社はありませんでした。山形で農業の手伝いを2年やっていましたが、農業で生活することの難しさや、私自身が性格的に一つものに対してプロのようにのめり込めないこともあり、卒業後は農業雑誌関係の会社の営業を半年間、その後、母校の大学のアルバイトを少しだけ、その流れで行政コンサル関係の仕事を4年程やりました。

行政コンサルを辞めた後は、1年かけて1人で世界1周の旅に出ました。国を挙げて有機農業をやっているキューバが気になっていたことや、「この際、気になる国に全部行ってしまおう」と思ったからです。

仕事を辞めて、次の仕事にすぐに就くのもなんだかなと思ったことあります。南北アメリカやアフリカ、中東のアラブ圏、旧ソ連圏だった中央アジアなど周り、基本的に市場に行って街並みを見たり、売っているものを片っ端から食べたりして時間を過ごしました。本当は全部の国を回りたかったですが、結局、全部で60数カ国回ったかと思います。一番印象的だった国はイエメンでした。

イエメンは、中東の中では一番経済的に苦しく、コーランが根付いている国です。コーランには「旅人を大事にせよ」というようなことが書かれており、イエメンはコーランの教えをかなり忠実に守っている国という印象でした。そう感じたのは、外国人である私に必要なものを与えてくれたり、食堂で一緒にご飯を食べないかと声かけをしてくれたことが背景にあります。

また、空港から街に行くときも、現地の人がワゴンに乗せてくれたこともありました。日本ではあり得ない現地の人の接し方に驚いてばかりでした。東南アジアでは香辛料貿易について、南米では言語を通してヨーロッパの植民地政策などについて肌で実感し、世界史で学んできたことや見えない背景が現実としてわかってきた気がしました。

世界1周から日本へ戻ってきて半年程経過し、栃木県にある『非電化工房』にて、弟子として1年間住み込みで働くことになりました。『非電化工房』に行ってみたいと思っていたタイミングと、弟子の募集をしていたタイミングが同じ時期だったということが大きかったと思います。

そこではウーフ形式で、こちらが労働力を提供する対価として、寝床と食事の提供がありました。小屋を作ったり、電動工具やチェーンソーを使ったりするという大工作業を生まれて初めて経験しました。

その中で「なんだ、やったことなくても、ちょっとやればできるじゃないか」と思うようになったんです。『非電化工房』に来るまで、大工作業や道具に関する興味もなかったり、実際それに関する作業をする機会がなかったので、一つ一つの作業が学びでした。水道を引いたり、五右衛門風呂を作ったり、畑作業をやったりもしました。『非電化工房』での時間が、私にとっての第3の起点となります。

そのうちに、自分の中で「体験農園をやりたい」気持ちが芽生え始めてきました。そこで三重県のある企業に1ヶ月研修に行き、あっという間に研修最終日。会社の食堂に行くと、テレビに釘付けになりました。そこには目を疑う光景が広がっていたんです。それは、東日本大震災が発生し、行ったこともある東北のまちが津波に襲われる映像でした。

(後編へ)

話し手:サントス佐藤文敬(イチ・ニ・サントス
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:HOUSEHOLD
インタビュー日:令和2年8月24日
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。