島根県津和野町で建築家として様々なプロジェクトに関わりつつ、同町・畑迫地区にて『糧〜ハタガサコの学び舎〜』の店主として、食を通して学びの場を作っている大江健太さん。そんな大江さんから幼少期から今に至るまでの背景、そしてこれからについてお話を伺いました。

上善は水のごとし

千葉で育った僕は4人兄弟の長男でした。「怒られないようにしよう」「問題ないようにしよう」の意識が頭にあったので、性格としては周りを気にするタイプだったかと思います。

小さい頃は、近所の同じ歳の友人と行ったことがない場所で冒険遊びだったり、木の棒を拾い、それを振り回したりして遊んでいました。一輪車にも夢中になり、小学校の頃は学年でもうまく乗りこなしていた方でした。

僕は今、建築家として仕事をしています。そんな僕が初めて建築の世界に興味を持ったのは小学校5年生の時でした。近所の家で棟上げが行われていて、その中で餅蒔きがありました。大工さんが高い所から餅を蒔いていて、その姿が「かっこいいな」と思ったんです。

それがきっかけで小学校の時に書いた将来の夢は大工か野球選手になることでした。祖父が伝統工芸士だったことも、もしかしたらモノを作る観点で興味を抱くきっかけの一つだったのかもしれません。

中学校に入ると、バスケ部に入部しました。当時、流行っていたバスケの漫画の影響もですが、バスケをやることで自分がカッコよくなるのではと思っていたことも理由にあります。ありがたいことに、同輩にも先輩にも恵まれ、楽しく部活動を過ごすことができました。

皆、カッコよかったんです。不良の部員が多かったけど、自分の意見をハッキリ言える人ばかりで、周りのことを気にする性格だった僕からすると、彼らは憧れでもありました。バスケ部に入ったおかげで、小学校の時よりも自分の意見を言えるようになったかと思います。

高校はバスケ部の強豪校へ進学しました。しかし、入部してから練習の厳しさもあり、1〜2ヶ月で退部してしまったんです。そこから他の部活には入らず、スーパーのアルバイトを高校卒業まで続けました。実は、バスケ部を退部してから自信を無くしていた自分がいて…。

「今後どうやって生きていこうかな?」と思い、色々な本を探し、バイト代で買っていました。本を読み始めたのは中学校の時からです。親が買ってきてくれた宗田理さんの『ぼくらシリーズ』を読んでから「自分は不良でいいかも」と思ったし、自分の意見をハッキリと言う一つのきっかけにもなりました。

バイトしながら探した結果、辿り着いたのは老子でした。そこからは、加島祥造さんが老子の言葉と思想を現代語自由詩の形によって表した本をひたすら読んでいました。読んでいるうちに気持ちが楽になっていったんです。

老子の有名な言葉があります。
「上善は水のごとし」

その言葉には
「最高の人生の在り方は水のように生きるということ。水は自分の存在を主張しないで、低い方へ自然に流れていく。水のようにしてこそ心穏やかに過ごすことができて、また円満な人間関係を創り上げることができる」

そんな意味が込められています。
「成功とかそういうものではなく、柔らかく自然体でいることがいいんだ」と感じ、そこからは思想関係の本を読むようになりました。それが僕の今持っている“柔らかさ”と“自然体”でいるスタイルの根本的な部分です。

あと、俳優の窪塚洋介さんに当時憧れていました。窪塚さんがオススメする本も結構読んだり、出演しているドラマや映画を観たりしましたし、何よりもその一つ一つが非常に面白かったんです。

特に映画『GO』では、自分自身の事ついて改めて考えさせられました。自分の意思を表明することに対して影響も受けています。

大切なことを話せる仲間

高校を卒業後、僕は千葉にある建築を学べる専門学校へ通いました。建築の道を決めたきっかけは高校3年生の時の文化祭でした。僕はクラスの空間装飾担当になりました。担当決めになった時、誰も手を挙げなくて、何となくですが、自分ならできる気がしたんです。

しかし、文化祭の直前まで何をどうするか思いつきませんでした。低コストでどう教室の雰囲気を変えればいいのか色々考えました。最終的に思いついたのがスーパーにあるダンボールを使う事でした。

スーパーのダンボールは無料です。だから、それをたくさんもらってきて、タイル型の形に切り、色を塗って大量に貼ってみました。皆で作業することで文化祭前日までもですし、当日も盛り上がりました。

次第に他のクラスの人たちが見にきてくれて「カッコいいね」「ここのクラスが一番いいね」と嬉しい声が聞こえてきたんです。高校の中で一番楽しい日でした。自分のアイデアが褒め讃えられたことは自信に繋がりました。そこから建築の道を目指そうと思ったんです。

専門学校では座学が殆どでした。2年間のうちに2級建築士の資格を取得するために勉強しました。現場で大工さんのように作業する等の経験はしていません。技術的な部分は社会人になってしばらく経ってから磨くことになります。

就職は実家から通勤しやすいハウスメーカーに就職しました。この会社では、営業・設計・建売・現場監督等、幅広く仕事するフィールドがあります。最初は現場監督からのスタートでした。

思っていた仕事と違って、モチベーションは上がりませんでした。僕は設計を一番したかったんです。その思いとは裏腹に、その後は営業、建売の仕事をする部署に異動となりました。

社会人になって4年目の終わり。東日本大震災(以下:震災)があり、そこで経験したことや感じたことは大分あります。僕は震災前から会社近くの飲食店に通っていて、そこで一緒にいて居心地がいい仲間と出会いました。

しかし、震災が起き、このような状態だからこそできることをやろうと思い、その旨を仲間たちに話したのですが、誰も僕と同じ気持ちがある人はいませんでした。この場面に直面したときに初めて、自分が持っているコミュニテイは非常に弱いと感じました。

震源地から距離があった千葉だったから被害は確かにそこまでなかった。でも、例えば、千葉が完全に被災したとして、自分がいた当時のコミュニティで生き延びられるかといったら、自信がありませんでした。

そう感じた時、ちゃんと自分のコミュニティをしっかりさせることは今後生きていく上で非常に大事だと思いました。
「それは自分だけじゃなくて、他の人でも大事ではないか?」
「じゃ、生きていくためにはどういう仕組みがあったら安心して生きていけるのだろう?」

そのように考えるようになり、自分たちで安心できる何かを作らないといけない気持ちになったんです。それは災害に限った話ではありません。暮らしだったり、政治だったり…。そんな大切なことを話せる仲間がいないことが本当に危ないと感じました。

震災から3年後、悔しさでいっぱいでした。それは、何かやりたいと思っても何もできなかったことや自分の力が無いと感じたことからです。でも、これから先たくさんのことが待っている。

それなら、自分でちゃんと力をつけて、色々な人を巻き込んで生きていける体制やプロジェクトを作っておくことが自分たちの身を守る安心に繋がると感じ、その思いを実現するための力をつけたいと思うようになります。その思いは今でも変わりません。

中編はこちら

話し手:大江健太(糧〜ハタガサコの学び舎〜/高津川デザイン工房
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和3年3月24日
インタビュー場所:糧〜ハタガサコの学び舎〜
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。