茨城県日立市を拠点にフィットネスインストラクターとして活動している赤津美咲さん。そんな赤津さんからフィットネスインストラクターになった背景や、出産前後の心境の変化等について話を伺いました。

結果よりも過程

私は日立で生まれて、大学に入るまでの殆どの時間を日立で過ごしました。性格は大人しかったのですが、とにかく体を動かすのが好きで、外で走り回ったり遊んだりしていたのを覚えています。

父が高校の体育教員をしていたからか、家族で運動をする機会が多かったのも一つの理由だったかもしれません。ただ、運動は好きでしたが、運動神経はあまり良い方ではなくて…。特に短距離や高飛び等の陸上競技が苦手でした。

逆にマラソンや球技は得意だったんですけどね。それでも、運動神経が悪いから何もしないのでなく「苦手だから・できないから、どうすればいいだろう?」って考えることが好きでした。その経験は今のフィットネスインストラクターとしての仕事にも繋がっています。

部活は小学校5年から始めたバスケを高校まで続けました。私の中ではバスケを始めたきっかけは記憶が曖昧なのですが、父からは「美咲が得意なマラソンでバスケ少年団の女の子に負けたことが悔しかったからバスケを始めたんだぞ」と言われています。

当時、年齢の割には身長があったので、入って間もなく試合に出させてもらうことができました。周りの仲間が低学年からバスケをやっていたので、小学校5年から始める遅いスタートに焦りがあり、地道な基礎練習や厳しい練習を耐えてきた中で私を試合に出させてくれたことはとても嬉しかったです。

しかし、あるとき耳に入ってきたんです。「美咲ちゃんはお父さんが高校のバスケ部顧問だから、それで監督は気を遣って、あなたを試合に出したのよ!」って。それは中学高校でも、その言葉に苦しみました。その中で「父がバスケ部顧問だから」と言われないように、そして嫌味を言われても気にならないように踏ん張って練習しました。

そんな中で私の気持ちの変化がありました。それは運動に対する考え方です。小学校までは運動に対して勝ち負けを意識することが多かったのですが、中学高校になってからは勝ち負けではなく、運動をすることの楽しさや、結果が出るまでの過程を意識するようになりました。

勿論、試合で最高のパフォーマンスやチームプレイができるように一生懸命練習しました。ただ、勝っても何かスッキリしなかったことがあり…。
「自分本来のプレイができなかったな…楽しくなかったな…」って思う時さえありました。

結果よりも結果が出るまでの過程を大事だと思い始めたのは、そのような経験があったからだと思います。綺麗事かもしれませんが、負けても楽しかったと思えることがたくさんありました。

「結果を出すことを目的とするスポーツも素敵だけど、私は楽しむことを目的としたスポーツの魅力を伝えていく仕事がしたい!」
そんな気持ちが強くなったのは高校2年の夏頃でした。

初心に戻ること

そろそろ将来の進路を決めないといけない時期となった高校2年の夏。私の中で将来の選択肢として、警察官、空港のグランドスタッフ、ジムのインストラクター、この3つが候補に挙がりました。色々悩んだ結果、「高校を卒業したら、すぐにインストラクターとしてジムに就職しよう」と決心しました。

そこで、地元にジムがあったので直接そこへ出向き、色々話を聞くことにしたんです。その中でジムの方から「ジムのインストラクターとしての採用はしているけど、知識や技術はある程度あった方がいいと思うよ」とアドバイスを受けました。

私は早くインストラクターの仕事に就きたかったので、4年制の大学だと期間が長くて待てませんでした。そこで、2年で卒業できる、かつ、保健体育を学べる東京女子体育大学の短期学部を選択。短大では、2年間でインストラクターとして仕事をするための勉強をみっちりすることができました。

父からは短大の2年間だけという条件で東京に出させてもらいましたが、東京に出たことで日立の良さに気づけましたし、海が近い日立の生活が好きだったので、日立に戻ることは苦ではありませんでした。

就職活動をしていくと、茨城県内にある大手の会社は尽く不採用でした。私なりに色々考え、地元の日立にある数社のジムへアポなしで問い合わせに行くことにしました。そのうちの1社が前職で私が勤めていたところになります。

問い合わせ当初は新規採用の募集をしていないとのことだったのですが、その後、「来年一人退職することになったから、一度面接をさせてほしい」と連絡があったんです。

「正規採用がないなら、まずはアルバイトからでもいいかな」という気持ちで問い合わせに行ったので、これは本当運が良かったと思います。結果、採用が決まり、20歳からジムのインストラクターとしての日々が始まることになります。

ジムで働き始めてから、退職する予定の先輩から1ヶ月で多くの引き継ぎがあったので、毎日必死でした。それまでは運動をする側、もしくは指導を受ける側でしたが、お客さんの前に立って正確に教えたり伝えたりすることは、私が思い描いていたことと全然違ったんです。私が如何にジムインストラクターの世界を甘く見ていたか、それを痛感しました。

そんな日々の中で、今でも忘れられない出来事があります。それはジムで働き始めて3ヶ月経過した7月、初めて一人でエアロビのレッスンを担当することになった時のことです。

エアロビは体も口も同時に動かすので、一度リズムが狂うと全て狂ってしまうのですが、レッスンを始めて30分経つと、そのような状態になってしまいました。そこからは会員さんに対する説明や自分の動きもズタボロ…。「私はこの仕事は向いていないんだ」と思い、大号泣してしまったんです。

その日の夜、ジムの先輩から一通のメールが…。
「今日悔しくて涙したこと、これは忘れちゃダメだよ。失敗は思い出したくないだろうけど、これをバネにして会員さんに喜んでもらえるように頑張ろう」と綴ってありました。

このメールきっかけで“初心に戻ることの大切さ”を教えてもらったんです。今でも毎年7月の時期や運動の楽しさを伝えることの対して悩んだ時・立ち止まった時は、この出来事を思い出します。

このジムでは5年間勤めました。ジムで学ばせてもらったことも今の私にとって大きな財産ですが、その5年の中でジムの外で学んだことも次のステップへ踏み出す大きなものとなります。

後編はこちら

話し手:赤津美咲(フィットネスインストラクター/ライター
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:晴耕雨読-日立マイクロシェアオフィス-
インタビュー日:令和2年12月3日
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。