埼玉県蓮田市にて『うるし劇場』の漆作家として日々製作に励まれている加藤那美子さん。そんな加藤さんから、漆作家になるまで、そして現在の作風に至るまでの背景を伺いました。

職人になりたい

私は3人姉弟の真ん中で、とても引っ込み事案な性格でした。夢中になるものや拘りもなく、基本周りに合わせるタイプだったかと思います。人前に出ることが嫌いで、図工の時間に作品を作って人前で披露したり、発表したりすることに抵抗がありました。

これといって、幼い頃から物を作るのが好きだったということは全くなく、今こうやって手仕事の作家として仕事をしている未来を全く想像していませんでした。

父は公務員、母は主婦で世間的に多くある家庭構成で、父からは「お前は公務員になるのがいい!」とずっと言われて育てられました。しかし、そんな父は残業で仕事の帰りが遅かったり、疲れが溜まっているような顔をしたりしていたので、公務員や会社員になりたい気持ちは全くありませんでした。そう思っていたのは親への反発心もあったのかと思います。

自分の中で何かに初めて興味を抱いたのは、小学校5年生の時のことです。伝統工芸が大好きな担任の先生から「伝統工芸の職人さんの仕事って素敵なんだよ」って社会科の授業で教えてもらう機会がありました。

授業内容はハッキリとは覚えていないのですが、その時、胸がトキめいたことは今でも覚えています。それまで特に好きなものもなかった私が初めて「これ、いいな」って思った瞬間でした。

中学生になり、今後の進路について考える時期を迎えた時に、漠然と「何かの職人になりたい」とは思ってはいました。元々ものづくりが特別好きというわけではなかったので、職人のジャンルすら決めていなかったのですけどね。

親への反発心もあったのか、「全然どんなジャンルの職人でもいいから、会社員や公務員じゃないものになりたい」と思ったんです。私の周りには職人になりたい人はいなかったけど、それしか思いつきませんでした。本当、漠然な気持ちだったんですよね。

「職人になりたい」と思いつつ、職人のなり方がわからなかったので、高校は語学系の学科に進学しました。語学はこれからの時代に必要かなと思っていたのですが、思っていた以上に勉強が難しくて、語学の道は嫌になってしまったんです。

「やっぱり職人になろう」と思い、当時ネットで色々調べられる時代ではなかったので、図書館へ行って職人のなり方を調べたりしました。その中で石川県輪島市にある『輪島漆芸技術研修所』を発見…漆器について全く知識はなかったけど、そこに入るための試験を受けようと決心しました。

父からは「普通の大学に行ってほしい!百歩譲って美大に行ってほしい!」と強く言われたのですが、私は職人には憧れていたけど美術のことは全然わからなかったことや才能がある人がたくさん入る美大でやっていける自信がなかったことから、父の意向を全く聞き入れなかったんです。

高校3年生の三者面談の時は、担任の先生の前で父と取っ組み合いの喧嘩になったりするくらい対立していました。
漆芸技術研修所の受験日。一緒に受験していたのは美大を卒業した人や美術の専門教育を受けてきた人ばかりでした。

「あー落ちたな」と思い、第2希望を受験する予定はなかったので、失意の元、近所のスーパーでパートを卒業間際から始めることにしました。

行き当たりバッタリ

「来年、大学受験するかな…困ったな…」
と今後のことを色々考えていた矢先、『輪島漆芸技術研修所』から合格通知が届いたんです。

まさかの結果に驚きながらも、輪島に行くことにしました。今思えば、漆器のことや職人のなり方もわかっていなかった私が、「職人になりたい」という漠然な思いだけで研修所へ入ったのは不純な動機だったかもしれません。

輪島に到着し、駅前にあるお土産屋さんに寄り、お店の人とお話していた時のことです。
「バブルが弾けて不景気になっていることと職人が溢れているのが今の輪島の現状だよ!職人として飯を食えなくて、道路工事の作業員をしている人が結構いるんだよ!」

輪島に来て早々、地元の人から現実を聞かされて、先が真っ暗な気持ちになってしまいました。私が通っていた漆芸技術研修所は伝統工芸展に作品を出したり、美術としての漆芸作品作りを教えてくれたりする所でした。

正直、私が思っていたことと違っていたんです。卒業した後は、研修所としては自分のやる気次第で道を切り拓いてほしいというスタンスだったので「私は職人になれないのでは」という不安がとても大きかったでした。

それでも輪島の街は楽しかったです。埼玉のベッドタウンで育った私の周りはサラリーマン家庭ばかりで、自営業をやっている人は殆どいませんでした。

逆に輪島で出会った職人さんたちは、今まで出会ったことのないタイプの大人ばかりで「こんな大人がいたんだ!」とワクワクする気持ちにさせてくれたんです。輪島は都会的な場所ではなく、人目がなかったので私として最高の環境で過ごせた研修所の2年間だったかと思います。

私は高い目標を持っていませんでした。研修所の同期には才能がある人がたくさんいる中で「皆すごいなーでも自分は末端の職人でいいや」と思っていたんです。

どうやって生き残れるかはわからないけど、人に言われた物を誰かがデザインしてくれて、それを作る歯車的な立ち位置でいいという気持ちがありました。

いざ卒業後のことを決めないといけない時期。「輪島の街中で仕事が見つからないかな」と考えていました。研修所に入って2年目から住んでいたアパートの大家さんが同じ建物内で蒔絵師をやっていて、まずは、「その人に弟子入りできないかな」と思い始めたんです。

大家という身近な存在だったけど、蒔絵師として弟子をとっているかは知りませんでした。不安はあったけど、勇気を振り絞って「弟子にしてもらえませんか?」とお願いしてみると、大家さんは「どうしようかな」という感じでしたが、弟子入りを了承してくれました。

本当、運が良かったです。研修所を卒業しても受け入れ先が見つからなくて、その道を諦めてしまう人も結構いたのですから。
弟子になると給与は出ません。親方という立場でありつつ、大家さんでもあったことから、家賃を無料にしてもらいました。それだけでもありがたかったです。

そこからは、実家から仕送りをしてもらいながら、仕事の合間にアルバイトをしながら、行き当たりバッタリな生活を送ることになります。

しかし、蒔絵師の親方の弟子になり1年経過し、想定もしていなかった事態になってしまいました。それは妊娠と結婚がきっかけでした。親方にはその報告をさせてもらったのですが、妊娠をした上での職人の仕事が難しい現実を指摘されてしまったのです。

私は妊娠がきっかけで仕事を失うことになるとは考えていませんでした。親方はそれでも優しく「子育てが落ち着いたら、いつでも戻っておいで」と声をかけてくれました。

親方の言うとおり、確かに子育ての生活は大変な日々でした。
「これは親方のところには戻れそうにない」
そう感じました。

それに同じ職人である夫の仕事もどうなるかわからない。生活費を稼ぐために自分もパートとして働く必要があると思いました。

職人の仕事は、弟子に入って給料が少ないのも心配だけど、何より修業を(子育てより)優先することが自分はできない。それなら漆関係の仕事なら雑用でも何でもいいから、パートとして雇ってくれるところを探すことにしたんです。

友人の協力もあり、ある工房にパートとして勤務することになりました。雑用など、よくあるパートのおばちゃんのような仕事をして、16時になると保育園に子どもの迎えに行くという流れでした。

それでも、元々蒔絵師の下で弟子として修行した経緯もあり、少しずつ雑用以外の職人としての仕事もやらせもらうようになりました。

私は家庭があったので独立とか目指していなかったけど、弟子が修行期間で覚える技を10年くらいかけてゆっくり覚えてようという気持ちでした。そんな中、夫との関係が悪くなり、離婚。埼玉に戻ることになってしまいます。

(後編へ続く)

話し手:加藤那美子(うるし劇場/縄文うるしパーク計画-埼玉にうるしを植える会
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:うるし劇場
インタビュー日:令和2年11月23日
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。