羨望と苦い経験からの決心

郡上八幡初訪問の日。目をキョロキョロさせながら町を散策した後、先生と、後に私の上司になる武藤さん(現:チームまちや代表)と打ち合わせをすることに。議論をしている中で、ふと先生に「建物の面を残したり古い町並みを整えたりすることは勿論大事だけど、そこに暮らす人がいないとその建物、まちは死んでしまうんだよね。暮らしがあってこその建物だし、まちなんですよ。」と言われました。

一見当たり前にも聞こえますが、表象の部分だけに固執していた当時の自分にとっては、ハッとさせられた一言でした。他方で、当時、郡上八幡では移住者が増え始め、空き家を活用したお店がちょうど増え始めていた頃でした。

その流れもあって、結果的に卒論では建物の表面を扱うのではなく、空き家を活用して移住し、新しくお店をはじめた人たちに片っ端からインタビューをしていくことになりました。このあたりから徐々にまちにディープ関わっていくことになります。

20名くらいの移住者の方たちに話を聞いたと思いますが、研究内容はさておき、その全員が自分のやりたいことが何かを突き詰め、それをやるために郡上に移住してきた人たちだったんです。どの人の生き方も、自分がこれまで、そしてこのさき想定していた、いわゆるレールに乗って進んでいく生き方とは違ったものでした。

ニュータウンで育ったこともあり、自営業というのがイメージできなかった当時の自分には、どこか羨ましかったですね。ただ、その時はまだ大学院に進学し、それなりの企業に入ることしか考えていませんでした。

大学院に進学してからは、郡上八幡以外の地域にも関わるようになりました。その中で、たしか修士1年の冬先頃だったと思いますが、ある地域を対象地に選んで応募した土木デザインコンペがあった(良い成果は残せず…)のですが、その提案内容を実際に地元の方たちにプレゼンをする機会をいただいたことがあったんです。

コンペに負けたとはいえ、少しくらいは地元の人たちに喜んでもらえるだろうと自信満々で発表しました。しかし、期待とは裏腹に、発表が終わったあと地元の人たちは無反応。会場は、凍りついたような状況でした。会が終わって、宿に戻ってから号泣しましたね。

自分が如何に頭でっかちになってたか、現場である地域のことを何もわかっていなかったのか。あれほど痛烈に思い知ったことはありません。ただ、それだけの思いをしないと自分の甘さに気付けていなかったと思います。

そんな日々を過ごしている内に、就活の時期がやってきました。はじめは普通に企業等を受けてましたが、郡上八幡で出会った人たちの生き方への羨望や、コンペの発表をしたときに感じた現場と自分の乖離みたいなものとか、とにかく心の中にモヤモヤを抱え続けていました。

とはいえ、両親の期待を裏切りたくない思いもあり、そもそも地方に行って仕事があるのかもそのときはわからなかったので決断に悩みました。

ただ、結果最後は、企業に行く選択と地方に行く選択を天秤にかけたら、地方に行ってみたい気持ちが勝ったんですよね。そしたら運の良いことに、武藤さんからチームまちやでひとり募集する話が舞い込んできて。

そのおかげで少なからず生活していける状況が整ったので、郡上八幡へ移住することを決意しました。全くわからないながらも、結果的には自分の選択を尊重してくれた両親にも頭があがりませんね。ほんと、恵まれてます。

人と人のあいだに身を置くこと

これまで研究室で地域に関わっていた学生が、卒業と同時に移住した前例があったわけでもなかったので、移住したのはいいけど、先は見通せないし本当にこの町でやっていけるのか、序盤は怖さしかなかったですね。

あれだけ決意したのに、企業で力をつけてから地域に入った方がよかったのかも、と思う自分さえいました。特に移住2年目は、田舎で暮らす大変さや論文・研究をまったく進めることができない状況が続き、プライベートでもいろいろ起きて結構ぐちゃぐちゃでしたね。

でも、色々悩みはしましたが最後は、「自分が選んだ道だから仕方がないし、今目の前のことをやっていくしかない」と振り切ることができました。実はその大きなきっかけは、スタジオジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんの本やラジオだったんですが笑。ぜひみなさんにおすすめしたいですね。

悩みが晴れた3年目からは、地域の人からいろんなことを頼まれるようになり、その中で今まで自分で思いもしなかった仕事が少しずつできるようになってきました。写真やデザインなんかがその例で、まだまだ初心者ですがみなさんに育ててもらいながら楽しく仕事できています。

自分にできることは実は意外と他人が見つけてくれたりする。色々なことをやらないといけない現場に入ったからこそ得られた経験だと思いますね。自分自身、「誰になんと言われようとこれをやるんだ!」というよりは、人から頼まれたものにどう答えるかの方が好きだったことも功を奏したんでしょうね。

たった四半世紀ほどですが自分の人生を振り返ってみると、案外大切にしていることは曲げずに来れているのかもなと最近感じています。結局それがなんなのかはいまだに言語化できていませんが。

塾の先生、教育実習の先輩、部活や大学の同期たち、研究室の先生、そして郡上八幡の人たち。自分に本気で向き合ってくれた、心から敬愛できる人たちに囲まれて、その人たちと一緒に過ごすために必死に生きる。その状態が自分にとっての一番の原動力になってるんだと思います。

そんな人たちにこれまで出会い続けてこられたのは、めぐり合わせとしか言えないので、運が良かった、その言葉に集約されてしまいますね。自分ひとりでやったことなんてほんと微々たるものです。

どこまでいっても、自分にできることできないこと、自分がわかってることわかってないことを知るためには、人と関わるしかないんだと思います。自分ひとりで引き籠もって考え出せる答えなんてたかが知れてますし、おそらく大したものにはなりにくい。

常に人と人の間に身を置き、自分の思考や能力を客観視し続けながら、アウトプットと省察を繰り返す。それが一番大事なことだと思います。そういう意味での地域の魅力は、計り仕切れないかもしれませんね。

語り手:猪股誠野(チームまちや/NPO法人郡上八幡水の学校/COTONARI
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー場所:チームまちや
インタビュー日:令和2年7月30日
●編集後記
「自分にできることできないこと、自分がわかってることわかってないことを知るためには、人と関わるしかない」

猪股さんのこの言葉は、誰にでも通じる部分があると思います。

でも、それが当たり前になってて、それを言語化できたり、認識できたりする人は少ない。僕もそうでした。

前職を辞める過程で、今後の動きをしていくための過程で、そして今各地で取材させていただいたりする過程で、やっと分かってきた気がします。

誰にだって、嬉しい成功体験もあれば、悲しい失敗体験もあります。その繰り返しで、自分は人と人とのあいだにいて、今の自分が構成されているんだって。

猪股さんのインタビューをしている時、自分の生きてきた中での色々な転機があったシーンを思い出しました。そこには必ずそばに誰かがいたんですよね。僕も誰かに憧れて、その誰かの背中を追いかけて、成功や失敗をしてきました。失敗のほうが多いかもしれませんが汗

今回の取材を通して、周りの人たちの存在から教えてもらえる一つ一つのことの大切さや、逆に自分自身も誰かにとって、そのような存在であるのかなって強く認識できるようになりました。

猪股さん、ありがとうございました。

編集長 上泰寿

上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。