自分だからできること

僕は高校まで人間関係で悩み続けてきました。だから、人との関係に紐づくことを学びたいという気持ちもあったと思います。実家のアイデンティティと自分の関心を重ねて考え、国際関係や平和について宗教の観点から学ぶ内藤ゼミを選びました。

内藤ゼミの活動で特に印象に残っているのは、トルコへの1ヶ月のフィールドワークです。政府の要人や宗教指導者、現地に住む人等、様々な立場や宗教の人にインタビューをしました。その中で学んだことが二つあります。

1つ目は、宗教の対立に大きく影響しているのは、“お互いを知らないこと“だということ。特にキリスト教徒がイスラム教徒のことを「どういう宗教で、どのような考えをする人なのか?」ということを知らなさすぎると感じました。

さらに、知らないことに対して、知ろうとしないまま、理解を深めようとしないまま、嫌悪感を持つ。知らないとなると、自分たちの価値基準と違った際の歩み寄りが難しくなる。

例えば、イスラム教の人たちは道徳と宗教を分けて考えることができません。日本では道徳と宗教を分けて考えることもできますが、イスラム教は「それができない宗教です」としか言いようがなく、それを知らないと歩み寄りが難しくなります。

もちろん対立が生じるまでには複雑な要素が絡んでいますが、無知であることが対立に繋がるひとつの大きな要因だと感じました。まずは、相互の理解。お互いのことを知ることに繋げないと、どれだけ情報発信されても対立している状況を変えるのは難しいだろうと感じました。

もう1つは、ハタイ県(イスラム教徒が多数派を占めるトルコにおいて、キリスト教の聖地であり、イスラム教徒とキリスト教徒の共生が成立しているとされる県)を訪れた際、現地在住の記者に聞いた「どうして、イスラム教徒とキリスト教徒との共生が成立しているのか?」という問いへの回答です。

「ハタイ県では、宗教で線を引いて人を判断することがない」と言うんです。相手がどんな人であって、どう考えているのか、その違いを理解し尊重した上で、大切なのは“人として”接することだと。

相手の宗教やそれによる違いは当然知っていて、知った上で宗教では人をカテゴライズしたり線引きしたりせず、“人として”接する。その上でお互いの宗教も尊重し合う。

例えば、イスラム教徒の人が、隣人のキリスト教徒のクリスマスを一緒に祝うんです。宗教の違いや教義も理解した上で、友達にとって大切な日だから自分も祝うんだと。これがひとりひとりの当たり前になっている。これができる環境を体感できたのは、大きな学びでした。

フィールドワークに行ったのは12月で、その後も1月や2月はフィールドワークで撮った映像を編集して成果を取りまとめる作業が必要でした。周りの人が就職活動で動いている中、自分はゼミに注力することを優先したんです。

そのため、全然就職活動に時間をかけられませんでした。また、大学院への進学も同時に検討し始め、就職活動と進学で悩みながら、どちらも中途半端にしか取り組めませんでした。

最終的には就職することに決めたのですが、「改めてちゃんと時間をかけた方がいい」と思い、就職浪人することにしたんです。自分が就きたい仕事について改めて考えると、

「誰でもできることではなくて、自分が手がけたことでアウトプットが大きく変わる」仕事がしたいと思いました。ただ売るのであれば、自分より優秀な営業はたくさんいます。

自分が携わることで完成品が変化する、自分の色を加えられるものづくり的な仕事に興味を持ちました。スポーツライターとして、数千字のコンテンツをつくりたいと考えていたのと発想は同じですね。

ゼミの活動を通じて映像は不向きだと感じ、文章も大きなコンテンツをつくれる実力がない。文系の自分がものをつくるるという観点で思いついたのが不動産業でした。

プランニングから自分の考えを加えつつ、アウトプットを大きく変える可能性があると考えました。その中で、僕は地方生まれ地方育ちです。東京でバリバリ開発したいかと言われると、そこにあまり魅力を感じませんでした。

もちろん多くの人が使うものをつくることに魅力はあるものの、自分じゃなくても他の人でもできる。やはり地方で育ったのであれば、そこに何か価値を提供できる、地方のまちづくりに携われる仕事がいいだろう。そんな想いもありました。

ご縁もあり、国土交通省系の独立行政法人に就職することになります。大学時代の仲間を大切にしたかったので、都内に住みながら、地方の開発に関わる仕事をしたいと考えて、その思いを入社前から人事に話をしていました。それが運よく叶うことになり、東日本の都市開発関連の仕事をしていくことになります。

四国若者1000人会議

入社すると、札幌をメインに月に数回の地方出張、それ以外はオフィスで行政や企業との折衝のための資料を作成したり、都市計画の観点からの分析や国交省の事業や制度をリサーチしたりする日々でした。

どういう街にすることが最善なのか、1つの正解があるものではありませんが、当時の自分は色々な考えから最大公約数を見つければ街にとって最適で合理的な開発ができると思い込んでいましたね。

今振り返ると、不勉強で稚拙だったなと思うのですが。ハード面を含めて街を変えていく初期の段階から携われること。それに対して非常にやりがいを感じていましたし、入社前にまさにやりたいと考えていたことでした。

だから、入社して2年経ち、異動の話がきたときは、仕事に対してのモチベーションが大きく下がってしまいました。当時、尊敬していた上司に「今の部署で仕事を続けたい」と伝えましたが、上司からは次の言葉が返ってきました。

「気持ちはわかる。でも、3000人職員がいる中で、この仕事ができる人数は限られているんだ。地方に関われる部署に戻ってこれない可能性があることも踏まえて、この会社で仕事をした方がいい。」

異動があることは仕方ないと思っていましたし、上司の言葉は最もでした。しかし、異動した次の部署の仕事内容が、自分の価値観との相違が大きかったんです。

価値観が合わないことを仕事としてやっていくことが腑に落ちず、モチベーションが上がりませんでした。自分はお寺のこともあり、いつ香川に帰るか分からない中で、次の異動までモチベーションの低い仕事を我慢してやりたくない。

他の働き方に興味を持ち始め、色々な本を読んだり、SNS等で情報を集めたりするようになったんです。その中で、『四国若者1000人会議』(以下:若者会議)の運営メンバー募集の告知が目に止まりました。これが僕にとって大きな転換点となります。

四国若者1000人会議は、地方創生という言葉がまだ生まれる前に、首都圏在住で四国に関心のある若者を1000人集めて化学反応を起こそうという企画でした。

事務局に連絡をし、運営として携わることになりました。準備に携わる中で一番感じたことは、自分がそれまで凝り固まった価値観の中で生きてきたということでした。

僕は有名な大学に行き、大企業に就職し生きていくこと、言い方は悪いですが進学も就職も“偏差値が高い生き方”が幸せだと当時は思っていました。それは、僕の周りにそのような考えの人しかいなかったからかもしれません。

しかし、東京から地方を見る新しいコミュニティに足を踏み入れてみると、偏差値なんてものはどっちでもよく、自分のキャリアに胸を張って「幸せだ」と言っている人たちがたくさんいたんです。

例えば、東大を出て大企業に就職したのに、その企業を辞めて地方に関わる仕事をしている人だったり、有名大学を出ていないのに起業して数億円稼いでいる人だったり…。そんな人たちと出会うことで「自分が考えていた幸せ以外にも、違う幸せがある」という現実を目の当たりにしたんです。

僕は運営側の中でも一番大きいチームのリーダーになりました。全体でも一番エネルギーを使う役割でした。でも、新しい経験を積めるし、積み重ねたことが形になるやりがいもあり、刺激的で楽しかったです。そして、本番は無事に終了、大成功でした。

本番の直前、翌年以降に若者会議を継続させるかどうかを話し合いました。僕は若者会議のような場で起きる化学反応に大きな可能性を感じたので、「代表やります」と手を挙げました。

収益化の見込みも全く立っていないにも関わらず、あまり深く考えることなく継続する選択肢を選んだんです。当時、僕はプロジェクトベースで動いたことがなく、高校の部活動や大学のサークルも継続することが当たり前で、止めることを前提としない環境で生きてきていたこともあったと思います。

1つあったのは、実家のお寺を継ぐために高松に戻ったとしても、当時は全く地元との関係性ができていませんでした。それなら若者会議を経て生まれた、地域に想いを持った関係性を増やした状況で継いだほうが絶対楽しいという予感はありました。

収入がゼロになるリスクもあり、若者会議のメンバーからも止められましたが、勤めていた法人を退職する決意をしました。無謀でリスキーな選択をしたなと思いますね。

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話し手:瑞田信仁(稱讃寺 副住職 17代目/一般社団法人四国若者会議・代表理事)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和3年3月16日
インタビュー場所:稱讃寺
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。