香川県高松市にある『稱讃寺』の副住職を勤めながら、若者の多様なキャリアや働き方の支援、四国への関係人口の創出、様々な場づくり等を行う一般社団法人四国若者会議・代表理事の瑞田信仁さん。そんな瑞田さんから、幼少期から遡り、現在に到るまでの背景や葛藤を伺いました。

評価されたい

小さい頃から、周りの評価を大事にする子どもでした。かっこよく思われたい、褒められたい、常にそんな気持ちを心の内に持って、人と接していたと思います。

小学生の頃、友人に勉強を教えていたとき、クラスメイトが発した一言で、自分の中での普通が、誰かを不快にさせていることに気づいたんです。

「教えるとき、上から目線だよね」

そのあたりからです。天真爛漫に人と接することができなくなり、一歩引くようになったのは…。
中学生になると野球部に入部しました。しかし、1年も経たずに退部してしまったんです。練習の厳しさや人間関係がうまくいかなかったことが理由にあります。

中学校は同調圧力も強く、野球部を退部したことは皆と同じコミュニティから外れることを意味していました。野球部のメンバーから退部したことを影で言われたり、疎外されるような扱いを受けたりして、学校を休む日も多くなりました。

2年生の初夏に同じ時期に部活を辞めた友人とテニス部に入部しました。野球部より人間関係のいざこざも少なく、少しずつ居場所になっていった感じです。

1つ驚いたのが、野球部は厳しい練習を我慢して続けていた感じだったのが、テニス部はみんな心からテニスが好きで、練習をやりたくて仕方がないという環境だったこと。

雨の日に、練習が休みになることを喜ぶのではなく、雨が止むことを祈って待機して、雨が弱まった一瞬の隙を見て練習するような環境でした。その姿勢はテニスの上達に確実につながっていて、練習時間が短いにも関わらず、テニス部は全国でも上位に入賞するチームでした。

テニス部での時間を通して、努力して頑張ることも大事だけど、何かを好きな気持ちで取り組むことには敵わないんだなと感じました。確かに一生懸命練習して努力することも必要です。

でもそれ以上に、一生懸命やっていることに対して好きな気持ちを持っていることで、ただ努力する以上の力や成長を引き出せる。チームメイトを見ていると、そんな感覚を持ちました。

我慢して嫌々続けることの伸びしろと、好きなことを嬉々として続けることの伸びしろと、後者を経験できたことは今振り返ると自分の財産になっていると思います。

高校に入っても、中学時代と変わらず、人付き合いが下手なタイプでした。
「評価されたい」「嫌われたくない」

そういう意識が空回りするばかりで、うまく溶け込めませんでした。自信がないから、常に一癖二癖カッコつけようとしていたところがありましたね。

クラスの中心にいること=評価されることと短絡的に考えて、そこに憧れている。嫌われないように一歩引いているのに、評価されたくて変にかっこつけている。

結局、輪に入れず、常に輪のちょっと外にいた感じです。屈折していて接しにくい人間だったと思います。プライドも高かったですし、テニス部の練習中に、初心者に負けてラケットを折ることで怒りをぶつけたこともありました。そんな自分に不甲斐なさや悔しさもありました。

高校のテニス部も全国大会に行くレベルのチームでした。僕はテニスで結果を出したい(=それによって評価されたい)と思い、テニスばかりやっていました。

周りの同級生が大学受験の勉強を始めていても、僕はテニスを続け、3年生が出なくてもいい大会にも出場していたんです。だから、大学受験対策は元から間に合わないと思っていました。

ここでもプライドがあった自分は、志望校のレベルを落とすよりも、浪人して志望する大学に行った方が良いと思い、京都の予備校で寮に入り、浪人生活を始めます。

夢と仕事

浪人をする前は「関西にある有名な大学に行こう」「国際関係や平和に興味があるから、その分野を学べる学部に行こう」と考えていました。高校時代はテニス漬けの日々で、勉強をほとんどしていませんでした。

浪人生活では勉強する時間がたくさんあり、目標とする大学を受験できるレベルに少しずつ近づいてきていました。そんな中である日、改めて志望校について、ふと考えたんです。

僕の将来の夢は、小学校高学年からずっとスポーツライターでした。だから「夢と大学を結びつけるべきではないか?」と思ったんです。

自分の夢を叶える仕事としてマスコミが近いと思い、卒業後にマスコミに就職する人が多い大学を調べてみると、一橋大学が出てきました。

志望していた大学よりも格段に難易度が上がるにも関わらず、無謀にも志望校を変更したんです。直後の模試判定は非常に悪い結果でしたが、奇跡的に一橋大学に合格することができました。

大学に入ってからは、授業やサークルの傍ら、スポーツライターになるためにライター養成塾へ通って、有名なスポーツ選手にインタビューする経験もさせてもらいました。

そして、2年生の終わり。3年生から所属するゼミを選ぶ時期になりました。自分の進路を改めて考え、スポーツライターという仕事についてより深く考えたんです。

僕がスポーツライターを志したのは、小さい頃からスポーツ選手の言葉や想いに何度も心を動かされたからでした。そんな誰かの心を動かす言葉や、選手の背景やストーリーを人が知り、良い思考や学びを得ることができれば、もっと生きやすくなる人が増えるのではないかと考えていたんです。

自分はそれを言葉で伝えたいと思い、スポーツライターを夢見ていました。つまり、スポーツの結果を伝えたいわけではなく、例えば、雑誌で数千から数万字の記事を書いたり、映像ならば数十分から数時間のドキュメントをつくったり、人の心が動くものをつくりたかったんです。

取材対象がどういう言葉を発して、どういう物語や考えを持っていて、それが情報を受け取る人の心にどう響くかが肝心だと考えていました。

そんなコンテンツをつくりたいと考えたとき、自分の実力を考えると、未経験のスポーツを扱っても難しいだろうと思い、テニスをメインとしたスポーツライターの道を考えました。

一方で、僕は「将来の夢は何か?」と聞かれたときに、生活や周りとの関係性等、その仕事をする環境を一切度外した状況で考えていたことに気づいたんです。

改めて夢をリアルに考えたときに、どんな環境にいて、どんな生活を送り、どんな関係性の中に自分がいるのか。テニスを主戦場とするスポーツライターは、試合が行われる世界各地を転々とすることが前提になります。

勿論やりがいは大きいですが、それ以上に、日本で友人なり家族なりに囲まれて暮らすことが、やりがい以上に幸せじゃないかと思ったんです。

自分の実力では未経験のスポーツで抜きん出たコンテンツをつくれる力はない、テニスをメインにしたスポーツライターは自分が望む生活や暮らしとの両立は難しい。悩みましたが、この段階で小さい頃からの夢だったスポーツライターは趣味にすることを決めました。

さらに、ゼミの選択が将来の仕事に直結してくることを考えると、実家のお寺のことが切り離せない。継ぐか継がないか決まっていないにしろ、そこに対して一定の見解を持たないといけないと思いました。仮に自分の夢を実現したとして、お寺を継がなかったとします。

自分のやりたいことを仕事にすることは、自分の動機を満たす上では幸せなことです。ただ、家族が代々役目を続けてきた歴史があり、僕のことを優しく見守ってきた檀家さんたちがいる中で、「継がない」という選択をしたとき、期待を裏切ったことに対する後ろめたさ、その十字架をずっと背負うことになると思ったんです。どれだけ自分の動機を満たして生きられるとしても、それを背負い続けて生きることは相当苦しいと感じました。

「ここに生まれたという自分の境遇は、これから何があっても変えることはできない。その人生を最も幸せに生きる道を考えると、自分が生まれてきた環境と運命を引き受け、お寺での自分の役割を引き受けること。役割を引き受けたその上で、自分のやりたいことを探していくこと。それが自分にとって幸せなのではないか。」

お寺への向き合い方にこのような暫定的な解を出しました。そう思えるようになってからは、お寺に対してネガティブな考えは小さくなりました。

そこで、自分のアイデンティティに深く刻まれている宗教について学ぼうと考えたこと、厳しい環境で学ぶことで自分が大切にしている深い人間関係が残ると思ったことから、学部で一番厳しいと言われる内藤正典先生のゼミに所属することを決めます。

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話し手:瑞田信仁(稱讃寺 副住職 17代目/一般社団法人四国若者会議・代表理事)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和3年3月16日
インタビュー場所:稱讃寺
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。