岡山県瀬戸内市にある長島。そこにはハンセン病患者だった人たちが入所している国立療養所『長島愛生園』があります。その療養所内の一角で『喫茶さざなみハウス/長島アンサンブル』という喫茶店を営んでいる鑓屋(やりや)翔子さん。そんな鑓屋さんから、このお店を始めるに至った背景や島の人たちに触れてみて感じてきたこと等を伺いました。

外へ外へ

大阪の梅田で育った私は当たり前のように家の側に学校があったり、便利な公共交通機関が揃ったりしている環境にいました。しかし、小学校3年生の時に飲食店を経営していた父が不規則な生活で体調を崩し「田舎に引っ越そう」という話になったんです。

父が田舎に行きたかった理由はシンプルに田舎暮らしが好きだったからでした。そこで、当時住まいとして見つけたのが岡山の棚田がある小さな集落。以前友人が遊びに来てくれた時に「日本昔話に出てきそうな場所だね」と言われるくらい、ど田舎の更に奥にあるところでした。

両親は循環を意識していて、例えば、鶏を飼い、その堆肥を使い畑で野菜を作って、その野菜の一部を鶏が食べ、卵や鶏肉を私たちが食べるということをしていました。

あと、トイレがボットントイレだったので一家全員で汲み取りをしたり、田んぼや畑は手や三ぐわで開拓をしたりして、原始的な生活に近いものでした。高校を卒業するまで、ずっと家の手伝いをしました。正直、イヤイヤな気持ちでやっていたんです。

学校帰ってからも、土日も当たり前のように手伝いをさせられていました。そのためか、同級生は皆遊びに行ったり好きなことをしたりしているのに「いいな」「何で私だけ?」と思っていました。

でも、長女だったからか「しっかりしなきゃ」と思ってしまうところもあって、両親に対して自分の正直な気持ちを伝えることはできませんでした。その点は学校生活でも一緒だったかもしれません。基本的に周りに流されるタイプだったかと思います。

大学進学の時期になって一つのチャンスが訪れました。それは、実家から出れる、ことです。従兄弟が和歌山に住んでいたことや、学力的に和歌山にある大学に進学できそうだったこともあり、両親の反対を押し切って高校卒業後は和歌山で一人暮らしをすることになります。外に出たい一心だったので、実家から出れた時は、とても嬉しかったです。

大学では、これといって特別なことはしていません。入学した英文系の学科は、高校生の時に何となく「スチュワーデスになりたい」と思って入ったところでした。

しかも、地理学に魅かれ、英文系ではなく、色々な土地の歴史や建物、交通等について日本各地巡りながら研究していくゼミに入ることになります。ただ、そのゼミに入ったからといって研究に熱心になっていたわけではありません。

授業中は携帯でネットやメールをしたり、プライベートは自転車で行けるところまで行ったりすることくらいの過ごし方でした。気がつけば、就職活動の時期になっていました。

私も皆と同じように合同説明会に行っていたのですが、途中から面倒臭くなってきて、「もう就活なんて、いいや」という気持ちになったんです。それで結局何もしていなかったら。皆は就職先が決まり、それぞれ内定式に参加していました。

その状況を見て、私は慌ててハローワークに通ったりして、何とか就職先を見つけることなります。それは、岡山県内にある商工会でした。職場の私以外の人は定年が近い年齢の方だらけ。仕事は経理がメインでしたが、与えられたこと以上のことについてはどうしたらいいかわからない…。

そんな環境にいたからか、色々考えたり、孤独を感じたりするようになってきました。そういうのを埋めるために、たくさん映画を観たり、本を読んだりして、とにかく外へ外へ出ていたんです。時には大阪や東京にも行くこともありました。

NEO集落

外に出て色々開拓するのも次第に疲れてきている自分がいました。そのうちに「地元で遊べて、かつ、それを楽しいと思える人が他所から来たらいいな」と思うようになり、実家の畑を借りて農作業をしてみようと思うようになったんです。

そこで、価値観の合う商工会の同期や友人に声をかけて農作業をしたり、気になる場所へ出かけたりするようになりました。そうやっているうちに私にとって転機が一つ訪れることになります。それは実家の近所にあった空き家の改修でした。

所有者の方から「好きにしてもいいよ」と言われたのですが、最初は中々手をつけづらい状況で途方に暮れていました。ある時、県が主催する空き家を活用したビジネスコンテストに応募したら努力賞をいただき、そこから風向きが変わってきたんです。

地元の役場の方から連絡をもらい、私の知り合いの大学の先生やそこの学生さん、そして大工さんまで来てくれるようになって改修作業は無事に完了しました。私たちはそこを『NEO集落』と名付けて、仕事の合間を縫って月に1回イベントを開催していくことにしたんです。

映画上映会、哲学カフェ、夜カレー等切り口を変えて、色々な人に足を運んでもらいました。しかし、1年間やっていくと毎回集客することが大変でした。そして「私はこのままでいいのかな?」と思い、26歳で商工会を退職することにしました。

そこからは、職業訓練校に通ったり、半年ぐらい大阪のライター講座を受講したりして、自分の今後について考える日々でした。ライター講座を受講する中で「あなたは作家になりたいのか?編集者になりたいのか?」と先生に聞かれることがありました。

私は単に書くことが好きだったので、ライターにも色々選択肢があることを全く知らなかったんです。その後、岡山にある編集プロダクションにアプローチをかけましたが、どこにも相手をされませんでした。年齢的に新卒でないことや、ライター経験が全くなかったことが一番の理由だったかもしれません。

そんな時、以前『NEO集落』の空き家活動をしていた時に知り合った女性の方から「廃業したお豆腐屋さんを復活させる取り組みを手伝ってほしい」と声かけがありました。

一度そこに足を運んでみて目にしたのは、地元のおばちゃんからおばあちゃん世代までの人たちが活き活きとしながら楽しそうにしている光景でした。一緒に手伝っていると熱量がとてもあって、小さな地域でもそのような人たちがいることの存在に初めて気づかされました。

私は小さな地域といっても、自分が住んでいた集落しか知らなかったので、初めて経験する活き活きしている地元の人たちとの時間が楽しくてたまりませんでした。

そこから、そのお豆腐屋さんの活動に顔を頻繁に出すようになり、声をかけてくれた女性が運営するNPO法人に就職することになります。27歳の時だったと思います。

そこからは、色々な地域に足を運んで企業の調査を手伝ったり、その地域の人たちに対して自分たちがどういった活動をしているか発信したりすることをやっていました。

NPO法人で働き始めた頃のことです。何かとバタバタした日々だったので、久しぶりに気分転換をしようと思い、岡山市内にある『サウダーヂな夜』というお店で開催されたライブに行くことにしました。

そこで若い女性が少なかったこともあり、気に留めてくれたお店のオーナーさんが「週末の昼営業を始めようとしていて、アルバイトを探しているんだけど、よかったら働いてみない?」と声かけをしてきたのです。それがきっかけで私は『サウダーヂな夜』でアルバイトをすることにしました。

後編はこちら

ハンセン病等の背景についてはこちら

話し手:鑓屋翔子(喫茶さざなみハウス/長島アンサンブル 店主)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長〜)
インタビュー場所:喫茶さざなみハウス/長島アンサンブル(国立療養所長島愛生園内)
インタビュー日:令和3年2月5日
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。