岡山県瀬戸内市・長島にハンセン病患者が入所している『国立療養所長島愛生園』があります。今回はまず、ハンセン病と長島愛生園について、そして、ハンセン病患者が見出したことの一つの例についてまとめました。

ハンセン病について

ハンセン病は“らい菌”と呼ばれる菌によって引き起こされる。1873年にノルウェーのハンセン博士が発見したことから、博士の名前をとってハンセン病と呼ばれるようになった。人には中々感染せず、感染する人はごく一部のようだ。

症状としては大きく分けると皮膚に出る症状と神経に出る症状に分かれる。皮膚に出る症状は、皮膚から色が抜けてきたり、赤くシコリができたりするのが特徴だ。この症状は現在治療によって抑えることができるが、神経の出る症状はどうしても回復できない症状や後遺症が出てくる場合があるようだ。

後遺症は、ハンセン病に限らず、脳卒中等、色々な病気が出てきて、神経が侵されると手足が麻痺し変形が残ってしまう。これ自体は病気ではない。ハンセン病は治らない時代に病気になった人たちは神経を侵され跡が体に残ってしまい、それがハンセン病と誤解され偏見を生むきっかけとなることも多かったのだ。


(写真:長島愛生園入り口)

明治初期、日本でハンセン病患者(以下:患者)の救済に取り組んだ人の多くは外国人宣教師だった。フランスから来日した神父をはじめ、女性神父が当時内閣総理大臣だった大隈重信氏に働きかけ「らい予防法」を制定するきっかけを作るなど、生涯日本のハンセン病患者の救済に尽力したと言われている。

明治40年、「らい予防に関する件」が制定された。この法律は神社や寺、土壌などで生活している患者を隔離対象としたものである。その後、患者を治療するために明治42年は全国を5地区に分けて公立の療養所ができた。

昭和4年には愛知県で始まった民間の運動をきっかけに「無らい県運動」が全国的に展開された。全てのハンセン病患者を隔離するという国の計画に基づき、警察官などを動員し摘発。これは患者を隔離するといった官民一体となった運動のことで、特に軍国主義の下民族浄化をスローガンに広がったという。これは、ハンセン病は不浄だという意識を植え付ける結果となり、偏見や差別を一層押し広めてしまったのだった。

戦後、プロミン等の開発によりハンセン病は不治の病から比較的簡単に治癒する病気となったが、「らい予防法」については隔離政策が続いた。療養所入所者の運動により、昭和63年には、長い間世間から隔絶され、離島だった長島に橋が架けられた。

この橋はハンセン病療養所と社会を一本の道で繋ぐことにより、「人間回復の橋」と呼ばれている。平成8年には、当時の厚生大臣の菅直人氏は国の過ちを認め謝罪。そして、1世紀に亘って人間として尊厳を犯してきた「らい予防法」は廃止となったのだ。

平成13年には熊本地裁原告団勝訴の判決が言い渡され、国は控訴をしなかった。この訴訟では、国が続けた患者の隔離政策によって家族も差別等の被害を受けたとして、元患者の家族らが国に損害賠償を求めていたものだった。

しかし、裁判が終わったからといって、ハンセン病問題の全てが解決したわけではない。

ハンセン病療養所の入所者の平均年齢を80歳を越えており、よく効く治療薬がない時代の後遺症が残っていること、さらに長い間社会から隔離された生活を送ってきたこと、そして、今もなお社会に偏見や差別が根強く残っていることから、療養所を出て生活するのは厳しい状況にある。


(写真:邑久(おく)長島大橋 「人間回復の橋」とも言われた)

国立療養所長島愛生園

昭和6年、日本で初めての『国立療養所長島愛生園』(以下:愛生園)が誕生した。そこは、岡山県瀬戸内市にある周囲16kmの孤島・長島に位置する。東京の全生病院から“開拓患者”と呼ばれた人たちが長島に到着。

光田初代園長ら職員は地元住民の混乱や反対を防ぐために、大阪から海路を経て上陸した。
その後、入所者は患者収容専用列車からトラックへ乗せ換えられ船に乗り、最初に収容桟橋へ上陸する流れとなった。この桟橋は患者専用のもので、療養所の関係者や職員は別の桟橋から出入りしていたという。

開園当時は子供の患者も多く、小学校や中学校も作れれた。定員400人でスタートした愛生園は昭和18年には2008名になり、運動会も盛大に行われたという。園内には恵の鐘と言われる鐘があり、それは初期の入所者と職員がともに海岸沿いから砂と石を運んで力を合わせて作られた。

他にも、十坪住宅と呼ばれる住宅を主に入所者が建築したり、愛生座と呼ばれる入所者自ら役者となり、台本を書き、手作りの歌舞伎を演じる場所もできたという。


(写真:収容桟橋 長島愛生園内)

隔離された入所者は収容所へ。建物に収容する前に、ゴザの上に所持品は全て並べさせられ、療養所が禁止した物品は取り上げられた。その後、消毒風呂で全身消毒、体の検診、病歴チェック、その他入所手続きが済むまで約1週間、収容所で過ごす。入所者の島での生活は、まずはここから始まったのだ。

入所者の中には規則を破ったり、逃亡を企てたり人もいて、そういった人は囚人にように監房や監禁室に入れられた。療養所から逃走できないように園内でしか使用できないお金や預金通帳が使われていたという。

園内には納骨堂が建てられている。初代納骨堂については入所者たちの手によって建てられた。園内に残された遺骨をぶえん仏にしてはいけない想いからだという。現在の納骨堂は平成14年に完成されたものである。愛生園では遺骨の引き取り手がないケースが多く、亡くなったら納骨堂に眠る人も少なくない。

親族に影響が及ばないように偽名のまま納骨されていたからだ。亡くなってもなお故郷に帰れない3600柱を越える遺骨が眠っている。ハンセン病に対する偏見や差別の目は患者のみならず、家族にまで及んでいた。国家賠償勝訴後は遺族によって遺骨が持ち帰えられることも少しずつ増えてきている。


(写真:収容所 長島愛生園内)

青い鳥楽団

患者の中には“らい”と盲と四肢障害の三重苦、もしくは別の病気で四十苦を背負った入所者もいた。中には家族、そして社会のどちらとも分離され、何を信じればいいのかわからなくなった入所者さえも。

彼は自分たちがいる環境の中で、それぞれできることを見出し、島での生活を楽しんでいった。その中に『青い鳥楽団』を呼ばれるハーモニカ楽団が存在した。

ある人はハーモニカに慰められ、ある人はハーモニカを療養生活の友としてきたという。そして、孤独の中で自己を慰めるのではなく、十数名の仲間が一つの楽曲を心を合わせて演奏するという協同体の喜びと楽しみを見出したのだった。

しかし、1953年の結成当初は楽器の不足、音楽的知識の未熟さがあり、足りないものだらけだった。その中で、どうしても習得しないといけないことがあったのだ。それは点字楽譜。一般社会の盲人にとって点字は盲人の第1動作とさえ言われるほど視力障害者には切り離せないものとされている。

“らい”を病んで、指先の知覚を奪われていた者にとっては至難の技だった。ただ一つ知覚の残された唇や舌先は、その痛ましい姿を超越して文字通り血の滲む努力を重ねながら、これを読破するに至ったのである。


(写真:点字楽譜を読み取っている様子 長島愛生園歴史館内より)

楽団員のほとんどの者は何より音楽が好きだった。だからこそ、血の滲むような点字習得の努力も、夜遅くまでの練習も苦とせず、それぞれ明るさを取り戻していったという。

見えない瞼の裏に無数の音符の列を刻みながら、楽団員一人ひとりはいつの間にか生活の中から楽団の存在を取り除くことができなくなっていた。楽団員の“らい”に対する苦悩は、そのまま『青い鳥楽団』に結びついたのである。

楽団結成後は園内での活動を中心に行っていた。しばらくすると協力者にも恵まれ「大阪や東京で演奏してほしい」と依頼が舞い込むようになり、東京の演奏会では多くの観客で会場がいっぱいになったという。

まさか自分たちが大きな舞台に立つことを想像していなかったし、自分たちの活動がハンセン病問題の啓発活動になっていることに対して喜びも感じていた。『青い鳥楽団』は楽団員の高齢化もあり、1978年に活動を終えることになる。あるメンバーは誇らしげに、こう言ったという。

「ハーモニカは私の人生を素晴らしいものにしてくれた」と。


(写真:青い鳥楽団 長島愛生園歴史館内より)

足元を見つめることで〜前編〜 へ続く)

取材者:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
取材場所:国立療養所長島愛生園歴史館
取材日:令和3年2月2日

※国立療養所長島愛生園庶務課に取材許可をいただいた上で、撮影・執筆をしています。
※参考文献 
「愛生 2007年8月号」 
 園誌(かつての入所者の編集部が園内の出来事・文芸活動等、あらゆることをまとめた雑誌)
「青い鳥楽団演奏と講演」 交流の家 開所記念行事 “らい”を聴く夕べ より
「闇を光に ハンセン病を生きて」 近藤宏一 著

上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。