あの時間がなかったら…

『FELISSIMO』はオリジナル商品を販売する通信販売会社です。私が最初にやったことはカタログの編集やECサイトのブランドマネージャーなど、販売の仕事でした。商品のことを企画担当の方に教えていただいて、それをどのような言葉や表現で売るのかを考えるのが面白かったです。

編集や企画が元々好きだったから仕事をしていて楽しい気持ちになっていました。それは高校時代に放送部でやっていたことや大学時代にやっていたことの延長線のようなものだったからかもしれません。

そんな中、会社の先輩から「淡路島でやってるワークショップに参加しない?」と声をかけられました。それが旦那さんであるトミーが立ち上げた「淡路はたらくカタチ研究島」の事業の一つでした。そのワークショップをきっかけに、毎月のように淡路島へ通うようになりました。それが27歳の冬。

正直、初めて淡路島の現地に行くまでどんなワークショップなのか全貌をわかっていない状態でした。現地では編集者の方の話を聞いたり、島の方に取材をしたりしました。

取材先で出会う、淡路島の農家さんや職人さんの話を伺ううちに「淡路島の人ってとっても面白い!」って思うようになったんです。講座を通じて、淡路島に仲良しの人がたくさんできました。

次第に「はたらくカタチ研究島」の事業の全貌を伺って、なんて面白いんだろう!とその魅力に引き込まれていきました。淡路島の外ではなかなか出会えない、大阪や福岡からやってくる魅力的な講師たちが、どうしてこぞって淡路島へやってくるんだろう?ってとっても不思議でした。

淡路島の人だけじゃなくて、色んな人とフラットに出会える淡路島の魅力に惹かれて、1年くらい月に何度も淡路島に遊びに来るようになりました。

その環は広がり淡路島の養鶏家さん、ちりめん屋さんなどなど、どこか楽し気な人たちにたくさん出会うことになります。

それぞれ、課題に直面しているけれど、とにかく前向きで主体的。「面白いからやろう」「楽しいことしよう」というのが原動力で、そのスタンスにめちゃくちゃ憧れたんです。

その人達のそばにいたら、私もそうなれるだろうかって思うようになりました。淡路島に通うようになって1年後、28歳で引っ越すことなります。淡路島に住んでからも会社には通っていました。

新社会人で、なんとなく馬が合う会社に勤めていたら、ずっとその会社に勤めていたと思います。その背景には必ず大学時代お世話になった大村先生の「食べていくために働くのではなく、生きていくために生きた仕事をしてください」という言葉が行動や選択のきっかけになっているし、1番の土台になっているからです。

居心地がよかったら、あの言葉を思い出さなかっただろうし、「先生たちのような大人になりたかったら、何を選べばいいか」ってことを考えなかったと思うんです。

新社会人で頭をぶつけるような苦い経験をしたこと、FELISSIMOで温かい人たちと仕事をしたこと、淡路島で憧れを抱くくらい素敵な人たちの背中を見てきたことで1つの選択をすることになります。

それは独立です。このまま会社員でいたら、与えてもらう仕事にあぐらをかいて満足してしまうかもしれないなって。自分で生み出す仕事は苦しいけれど、きっと楽しいということを選択しようと思ったからです。

屋号は『No.24』とすることにしました。実家の電話番号の下4桁が24なところからきているんです。ご近所さんに藤田姓が多くって、実家のあだ名が「ニジュウヨンバン」だったんですよね。

結婚するときに、戸籍上は富田になることになって、ちょっと寂しさを感じて。実家は旅館をしていたんですが、その家業を継ぐこともできなかったし、なにかそこに宿っている想いだけでも告げたらいいなと、実家のあだ名を継ぐとともに、ビジネスネームとして藤田祥子と名乗るようになりました。

ひとりじゃない

29歳の夏に『FELISSIMO』を退職しました。その時期に『ノマド村』の運営引き継ぎの話があり、引き継ぐことになります。ありがたいことにお客さんがたくさん足を運んでくれました。しかし、運営を1人でやっていたこともあり日々をこなすのに必死でボロボロだったんです。

2年目になり、よこやまかなえさん(以下:かなえさん)から連絡を受けたことがきっかけで流れが変わることになります。「元々淡路島出身で10年ぶりに戻ってきたこととノマド村に関わりたい」という内容でした。

かなえさんは飲食店でバイトしていたことや写真家だったことから「関わるならカフェでバイトしながら、淡路島の色々な人と関わっていくのはどう?」と提案し、スタッフとして来てもらうようになりました。

そこからです。精神的にボロボロだった『ノマド村』の運営が楽しいと感じるようになったのは。それはサポートしてくれる人が増えたこともですが、相談できる人がいてくれることや自分が考えたことを企画し実現できるようになったこと、お客さんとコミュニケーションができるようになったこと等、できることが増えたからだと思います。

3年目になり、更に人が増え、最終的に5人スタッフとして迎え入れることになりました。2年目にかなえさんが問い合わせて合流してくれたことはとても大きかった…。関わる人が増え、関わってくれる人や来てくれるお客さんが「楽しい」と言って帰ってくれるのを考えることも楽しくなってきたんですから。

他のスタッフは、主婦として子育てを頑張っている方もいれば、神戸からわざわざ来てくれた方もいました。スタッフがいてくれたことでとても心強かったし、いつかチームとして仕事をしていきたいと思ったきっかけが『ノマド村』での時間だったかと思います。


(写真提供:藤田祥子さんより 淡路島に行った気分になれるセット)

去年の春ぐらいに『淡路島に行った気分になれるセット』というものを始めました。新型コロナウィルスが拡大していく中で、淡路島に来てほしいのに来てもらえない、淡路島へ行きたい!と思ってくださる方々がたくさんいるのに迎えられない。そんなみんなの気持ちをどうにか昇華したくてはじめた通販です。

生産者さんのお野菜や、かなえさんの映し出した淡路島の風景、私の焼いた焼き菓子と、淡路島の空気感を伝えるお手紙を添えたセットです。4月から初めて1月ごろまで、12種類のセットを企画して、さまざまな生産者さんに協力してもらいました。

あのセットを通じて淡路島に来たことがある人やそうじゃない人から「淡路島に行った気分になれた」「元気をもらった」だったり、生産者さんから「声をかけてくれてありがとう」と言われて私自身元気をもらいました。

今後、こうした状況が2~3年続くのだろうなとうっすら見えはじめて、これまでやってきたカフェではない違う切り口が必要だと、このセットの通販を通じて感じました。

いろんなきっかけが重なって、カフェをクローズ。現在、洲本市内に新しい拠点を作っているところです。そこでは普段私がやっていることを関わっている人たちと一緒に色々なチャンネルで皆さんに紹介できたらと考えています。

そこには「淡路島にはこういう人たちがいるよ!」というのを一緒に味わったりすることで、同じ気持ちになり一緒に何かできる仲間を作りたい思いがあるんです。カフェだと食べてもらってお話することはできます。

でも、私がやりたいのはそこから一歩踏み込んだ切り口でして。例えば、ある生産者さんのことを紹介して、その生産者さんの商品を使って一緒に料理をしましょうとか、オンラインでその商品を買ってみませんか?とか、実際にその生産者さんに会いにいきましょうなどなど、色々なやり方・関わり方で生産者さんや商品のことを知ってもらう機会を作りたいんです。

オンラインもあればオフラインもあって、入口はオンラインで次に来てもらうときはオフラインということもアリだし、商品を買うだけもアリだし、関わり方は皆それぞれだから、興味がある人たちに対して色々な選択肢を示すことができる場所にしたいと思っています。

『淡路島に行った気分になれるセット』もですが、私のやっていることは一人ではできません。イラストを描いてくれる人がいて、写真を撮ってくれる人がいて、商品を提供してくれる生産者がいる…。だからこそ私の“生きた仕事”が成り立っているんです。

“生きた仕事”って自分自身で生み出すものかと思っていたけど、そうではありませんでした。ワクワクする何かがあり、それを共に味わう仲間がいることが大前提なんです。それを気づかせてくれたのは淡路島の人たちでした。

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藤田祥子編1はこちら

話し手:藤田祥子(No.24
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和3年1月23日
インタビュー場所:farm studio
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。