続いて、富田祐介さんにお話を伺いました。
藤田祥子編12はこちら)

一つのことにのめり込む自分

小さい頃、僕は発明家になりたいと思っていました。毎日何かしら作っていたかと思います。ミニ四駆だったり、電線引っ張ってきて電子系のものだったり。影響を受けたのは器用な父からで、父は庭の手入れやちょっとしたモノの修理をやっていて、その手伝いをしていたからかもしれません。

モノを作っていくうちに、使われなくなったテレビやラジオを解体し、部品を使って無線機を作るまでになってしまったのを覚えています。小学校4年の時に父は他界してしまったのですが、そこからは独学でモノ作りの勉強をしていました。

中学校に入ったら一転。バレーボールと天体望遠鏡に夢中になりました。日中はバレー、夜は寝る間を惜しんで天体望遠鏡で星を観る日々でした。長野のペンションで星を観るために、自分で旅行を組み立てたこともありましたね。

その時は長野まで天体望遠鏡を担いで行ったので大変でした。僕は元々三日坊主だったのですが、夢中になったものについては、どっぷりハマるタイプだったんです。それは今も変わらないかと思います。

高校の進路選択を決める時期に、将来何をやるかわからなかったですが、建築は面白そうだなと思っていました。だから、普通科のある高校よりも、理系のことを極めたい気持ちがあったんです。

ただ、家族とも相談して中学校の時点で進路を狭めることをしなくてもいいかと思い、普通科のある高校に行くことにしたんです。

高校に入ると中学校の時からやっていたギターの影響で音楽に夢中になりました。僕の世代だと、当時、ビジュアル系のバンドブームでした。

入学してから仲間を探してバンドを組み、演奏会をたくさんしていました。文化祭や他の高校でも、そして神戸のライブハウスを借りて対バンなんてしたりして、地元のバンドではかなり真面目にやっていたほうだと思います。

高校3年になった頃、将来のことを考えてながら何となく大学の冊子をめくっていたら次第に魅かれていく分野があったんです。それは建築でした。「面白い!これにしよう!」と思い、関西の建築学科がある大学に進学することになります。

成人式や同窓会で同級生に会うと「建築の勉強をしているってことは、富田くんは夢に向かっているんだね」と言われました。

しかし、大学に入ると僕が思っていた建築の世界とは違うものが待っていたんです。僕が入った学科は座学と設計を学ぶ大学で、現場に行って建築の作業をしたりフィールドワークをすることは全然なく、ひたすら模型を作って図面を描いて机と向き合う日々の連続でした。

そんな日々の中で自分に新しい世界を教えてくれた人がいます。それは兄でした。

企画と建築

兄は大阪にある芸大に通っていました。色々な企画をやったり、出版を目的とした団体を立ち上げたりと非常に活動的な人でした。そんな兄の企画したイベントの手伝いをする機会がありました。

当時、僕は孤高の建築家の本を読み、それに憧れて建築を学んでいました。逆に兄がやっていたものづくりは沢山の仲間と作り上げるものでした。そこから「企画や仕掛けを作っていくのも面白いな」と思い始めました。

フワフワした気持ちのまま大学で勉強をしたくなかったので、悩んだ挙句、大学2年を終えた時点で休学することになります。

しかし、休学してから最初の2~3ヶ月はダラダラする日々でした。「映画を観ていたら何かクリエイティブなことを思いつくのでは?」と考え、1日2~3本ずつ映画を観ていました。

ある時、母から「あんたは何のために毎日映画を観ているのよ!」を言われてしまい、そこから危機感がやっと出てきたんです。

「イベントは兄の手伝いをしたことがあるからわかる。でも、建築は作ったこともないからわからない。どちらがいいかは、一度全部自分で建築も作ってみてから考えよう!」

実家がもっていた山の中の土地で1年ぐらいかけて小屋を作ることにしました。それまで建築については机と睨めっこする日々だったので、楽しい気持ちで一杯でした。

小屋を作っていく過程で素人レベルですがコツを掴んだ気がしましたし、何より一つ小屋を作ったことで自信がついたんです。そこから復学し、3年から改めて建築を学んでいきました。

休学の時間と復学してからの時間を通して感じたのは「企画も建築の両方をやりたいし、両方やれる仕事に就きたい」ということでした。そう思ってからは大学では建築の勉強を一生懸命やり、大学以外の時間は広告関係の企画を地道にやっていきました。

しかし、当時は建築と企画が両方できる仕事はありませんでした。色々考えた結果、いつか独立することを想定して、今は就職活動はせず、一度フリーランスになる決心をします。

周りからは馬鹿にされました。「いい加減夢見ずに現実を見ろよ!」と言われ、何も実績がない自分には、その言葉に対して言い返せませんでした。

大学院も卒業せず実務歴もない僕は1級建築士を受験する資格がなく、卒業してからは建築事務所で働く必要がありました。建築の世界は仕事が夜遅くまでで、建築の世界に入ってしまうとプライベートで企画ができる自信がなかったんです。

だから、2年間限定で大工の真似事ではあるけど、それで建築の仕事を自分で取り、企画もやって仲間を作ろうということにしました。大学4年の時にポートフォリオを作って色々な建築関係や不動産関係の事務所に営業に回ったのですが、全然仕事を取ることができませんでした。

「大学でこんな勉強をしました!こんな小屋を作りました!安い金額でやるのでやらせてください!」とひたすら回りました。イベントの企画の関係で色々な会社に飛び込みで回っていた経験があったので少しは仕事を取れると思っていましたが、考えが甘かったようです。

「あー俺、無職だな」

そんな途方に暮れている時、知人から会社のイベントを手伝ってほしいと依頼されました。そして、その会場で出会った東京のアーティストさんから「明日淡路島で古民家改装しようとしている人たちに会うんだ。富田くんがやりたいことと合う気がするんだけど一緒にどう?」と声をかけてもらったんです。

それが今住んでいる淡路島に初めて足を踏み入れるきっかけとなります。

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話し手:富田祐介(株式会社シマトワークス 代表取締役)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和3年1月24日
インタビュー場所:珈楽枠(クラシック)
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。