兵庫県の瀬戸内海東部に位置する淡路島。そこでコピーライティングや淡路島をフィールドにしたカフェ運営や企画を行う『No.24』の藤田祥子さん、淡路島を拠点に新規事業や既存事業の戦略づくり企画提案を行っている『シマトワークス』代表の富田祐介さん夫妻。藤田さんと富田さん、それぞれの過去を遡りながら淡路島に来るまでの経緯や、これからのお話を伺いつつ、ご夫妻の暮らしや働き方、淡路島の人たちとの関係性について伺いました。
まずは、藤田祥子さんのお話からです。
生きた仕事をする
私の実家は小さな旅館を営んでいます。生まれ育った地域は商店が集まる場所で、周辺は電気屋さんや酒屋さん等の商いをしている人たちが多かったです。
実家の旅館にはお客さんが集まる食堂があって、小さい頃はよくお客さんに声をかけられたのを覚えています。同じ建物内に生活スペースがあったので、家の中に家族以外の誰かがいるというのは当たり前の環境でした。
中学校では放送部に入部しました。小学生の頃、阪神淡路大震災を身近に経験したことが背景にあります。大きな被害はなかったけど、母とよく訪れていた神戸の街が一変していて。
テレビでその様子を中継するアナウンサーを見て「大変なときに、しっかりニュースを伝えるってすごい」って思ったんです。そうして放送部に入部しました。
部活では、アナウンスの原稿を自分で取材して書いたり読み込んだり、大会や文化祭にむけて作品を作り込む日々。部活を続けていくうちに、表に立って原稿を読んだりすることよりも、裏方で台本を考えたり企画を考えるのも楽しいなと思うようになりました。
中高一貫校だったので高校も放送部。ただ、舞台裏の仕事にも興味が出てきて、高校では演出側に徹していました。
大学に進学して、「子どもとメディア」をテーマにできる学科に入りました。そこでNHKで『お母さんといっしょ』のプロデューサーをされていた一色先生や、その仲間の大村先生に出会うことになります。この先生たちとの出会いは私にとって非常に大きな出来事でした。
一色先生のゼミでは、子ども向けのアニメーションや動画をつくっていました。大学の近くにある保育所に協力してもらって動画を見てもらって、その様子を観察したりしていました。
子どものゼミにはいたけど、子どもが苦手だったんですよね、実は。でも一色先生や大村先生の様子を見ていて「大人も子どもも、あんまり関係ないのかも?」って思うようになったんです。大人と子どもを区別しなくなって、子どもたちと接することも楽しくなっていきました。
先生たちは当時で年齢は60歳ぐらいだったのですが、目がキラキラしていて、バイタリティがある人でした。
ふたりは「お母さんといっしょ」をつくるときに、2歳児の研究をされていて、その仲間だったのだそうです。
大村先生は他大学の先生だったけど私のことも自分の大学の学生と同じようにかわいがってくれました。よく呑みにも連れて行ってもらって、電車代をもらったりもしました笑。
そのときよく言われたのが「食べていくための仕事じゃなくて、生きた仕事をするんだよ」ということでした。
お金をもらうためだけに仕事をするんじゃなくて、生きるってこと大切にしてねって。
当時は難しくてよく理解してなかったけど、今ではなんとなくちょっと自分の言葉になってきた感じがしています。
タイミングと状況
その後、先生にお誘いいただいて大学院に進学。大学院ではオリジナルのストーリーをデジタルな絵本に見立て、その世界に入りこむようなシステムをつくりました。
デジタルな絵本を体験することで子どもたちにどういった変化が現れるのか。子どもたちの反応や活動を観察しながら論文をまとめました。
こうした世界をつくることができるプログラミングの可能性を感じ、想像もしなかった反応や活動に繋がることが面白いと感じましたし、「プログラムを学んだら先生のようになれるかもしれない」と思ったんです。そこで就職は地元を離れて、中国地方にあるシステム会社に入ることにしました。
しかし、そこでは私の人生の中でも一番辛い1年半が待っていました。
大村先生がプログラミングしている姿しか見てこなかったので、入社当初は現実とのギャップに驚く日々でした。
自分自身の勉強不足もあって、毎日会社に行っても何もできない、役に立っていないことをひしひしと感じさせられました。働くって楽しいことだって思ってたのに全然楽しくなかった。こんなのでよかったのかな。もんもんと考える日々が続きました。
泣きながら大村先生に電話したこともありました。先生が駆けつけてくれて、プログラミングのことや仕事のこと、いろいろアドバイスしてくれました。
やっぱり、仕事って楽しくってもいいはずだ!そう思えるようになるまで、一年半くらいかかりました。
関西と隣り合わせといっても、家族や友人に会えないこともさみしくて、転職を決意しました。
「関西に帰って、自分が生きてるって実感をもって仕事できることしよう!」
そう心に決めて出会ったのが『FELISSIMO』です。
選考が進む中で最後にお話をしたのが社長でした。1対1で話す時間をいただいたときに「何か聞きたいことはある?」と尋ねてくださいました。「この会社にはどんな人たちが働いていますか?」と聞いてみました。
すると社長は「自分で言うのもおかしいけど、この会社の人たちはいい人しかおらんよ!」とフレンドリーに答えてくれたんです笑。
当時勤めていた会社では社長は手の届かない遠い存在でしたが、FELISSIMOの社長はとても距離感が近くて、その眼差しがどこか一色先生や大村先生に近いなって感じました。
だからこそ「この社長の会社で、ここにいるみなさんと一緒に仕事したい」と思いました。実際、会社に入ったら、驚くほどいい人たちしかいなかったです。