不思議な感覚

淡路島で待っていたのはボロボロの古民家とNPO法人を立ち上げようとしていた“やまぐちくにこ”さんでした。古民家を見て「この状態から改修していったら楽しいだろうな」と思い「改修を僕にやらせてください!」とやまぐちさんたちにお願いしました。

それまで1年間仕事を断られ続けてきたのに、「いいよ!やってやって!」とすんなり了承してもらえたんです。そのまま大学を卒業して淡路島に泊まり込みで神戸から通うようになりました。

1週間改修作業をして神戸へ戻る、という生活の繰り返しでした。気がつけば、やまぐちさんのような淡路島の面白い人たちが集まっていて、たくさんの仲間ができました。

僕は神戸で生まれ、周りにはサラリーマン家庭が多かったので、都会的な働き方しか知りませんでした。だから、淡路島の人に会う度に「何の仕事しているんだろう?この人たちどうやって生きているんだろう?」って思っていました。

その人たちと一緒にいると不思議な感覚もありつつ、居心地がいいものでした。ただ、当時は自分がその先、淡路島で暮らすという未来は想像できなかったんです。

古民家改修の区切りがつき、次のことについて考えていました。その中で自分が建築について我流でずっとやってきたこともあったので、ちゃんとした建築関係のところで働いて技術や経験を得ないといけない気持ちになったんです。

24歳になり、それまでが小屋や古民家などのDIYリノベーションしか現場経験がなかったので、に関わって経験を積んでいきたいと考えました。そこから東京に行って就職して、設計の仕事をすることになります。

その会社では6年程働かせてもらいました。企画については東京というフィールドはとてもやりやすかったです。プライベートで色々と企画させてもらって、仲間もできましたし、その仲間たちを連れて淡路島へ連れていくこともありました。

逆に淡路島の仲間たちが東京に来てくれることもありましたね。結局、毎年東京から毎回10~20人ぐらい連れて淡路島へ行っていました。東京の仲間たちからは、僕が淡路島出身と勘違いしている人が多かったです。

それだけ僕が淡路島のことを周りの人に話していたんだと気付かされました。不思議な気持ちでした。僕は淡路島に興味があって行ったわけじゃないけど、そこで出会った人たちに惹かれるものがあったのだと思います。だからこそ、東京に数年働いていても、淡路島との関係性が続いたままだったのだと思います。

29歳の頃になり、東京で働いていた建築関係の会社をそろそろ辞めようと思いはじめました。建築と企画の両方やりたいと言っていたけど、企画のほうが面白くなってきたので、企画メインでやりたくなってきたからです。

しかし、企画メインで独立して生活していける自信はありませんでした。だから転職しようと考えたんです。東京のブランディング会社に就職して数年働いて力をつけてから先のことを考えようと思いました。

僕が転職のことを考えている時期に淡路島のやまぐちさんから声かけがあったんです。それは「淡路島で新しく始めたい事業があって、一緒にやらないか?」という声かけでした。


(写真:やまぐちくにこさん)

ワクワクするかどうか

東京で転職するか淡路島にいくか、半年程悩みました。その間、やまぐちさんはずっと声をかけてくれたんです。ある時、やまぐちさんが仲間を紹介してくれる機会がありました。

仲間に会って「めっちゃ面白い!これは一緒にできるかもしれない!」と思って、その場で「やります!」と返事をしました。あともう1つ。立ち上げた事業がうまくまわりだしたら、その事業を卒業して独立させてもらうという条件で参加を決めました。

僕は基本的に知らないものをやってみたい気持ちが潜在的にあります。先が見えてしまうことにつまらなさを感じてしまうタイプなんです。

「やります!」と返事をしてから3か月後に会社を退職させてもらい、淡路島での事業を立ち上げる準備をはじめました。そして翌年に仲間たちと「淡路はたらくカタチ研究島」を立ち上げました。

東京にいると時間に追われているなと感じることが多いです。それは生活の中で仕事の比重が大きいからだと思います。淡路島では東京の忙しさではなく、暮らしの比重が大きいんです。

“はたらくカタチ”をテーマにしていたからこそ、大学卒業後はじめて淡路島に来た頃に「不思議だな」と思っていた生き方が「働き方や生き方として、こういうのがあったんだ」と目の当たりにできたんだと思います。

そしてその生き方は、生活として成り立っているし、何より淡路島の人たちは楽しそうで幸せそうだったんです。勿論、東京の知人たちも幸せそうにしていました。

そこで気づいたんです。僕が知らなかっただけだったことに。僕が知っていたのは実家周辺の人たちやテレビや雑誌で見る人たちの生き方だったんです。

淡路島で暮らし、仕事をしていたことで価値観が大きく変わったと思います。だからこそ「自分は今後どうするんだろう?」と考えました。

それまでは感覚的に淡路島が好きだったのものが、色々整理するうちに言語化して「こうだから面白い、こうだから好き」となっていったんです。そうすることで淡路島の外の人とどう繋がっていったらいいのかということがボンヤリと見えてきました。


(写真:富田祐介さんより Jam Sessionの様子)

「淡路はたらくカタチ研究島」の事業の一環で開催したワークショップに僕も参加者として混ざる機会がありました。そこでは自分の働き方や未来の仕事がテーマになっていて、独立が見えていた頃だったので自分の将来の会社名について話になった時にノートに『シマトワークス』と書いたんです。

“島と仕事”“島の人たちと仕事を作る”ことを意味を示しています。その後、ワークショップから結構時間が経過し、独立する準備をしていた中で、そのノートを見つけました。「これ、いいな」って思って会社名を『シマトワークス』にしたんです。

会社を立ち上げ当初は「企画って何をしてくれるの?」と聞かれても自分でもよくわかっていませんでした。そんな中で初めて仕事の相談をしてくれたのは以前からお世話になっていた『淡路島山田屋』の山田夫妻だったんです。

当時、山田夫妻はイチゴ農園のオープン準備をしていました。その中で
「イチゴ農園で開催するイベント企画を富田さんにお願いしたい」
と声をかけてくれたんです。

そこから今でも毎年やっている『Jam Session』という企画をやらせてもらうようになりました。この企画は2時間貸切のイチゴ園の中で、様々な分野のゲストとイチゴとのセッションを楽しむものです。

会社では「ワクワクする明日をこの島から」をキャッチーにやっています。過去の自分を振り返ると、休学した時、淡路島に初めてきた時、就職しなかった時、淡路島に仲間ができたのに東京に行ってしまった時、そして会社を辞めてまた淡路島に戻った時…。全部「先が見えないから面白い」、そこに行っているんだなと思います。

結局、引っ越すとか仕事を変えるとか、人生の大きな決断は“ワクワクしているかどうか”で決めている自分がいるんです。自分はそういう生き方しかできないんだなと思いましたし、そんな自分を認めることにしました。

だから、それを会社のキャッチーにしてワクワクすることしかできませんということにしたんです。ワクワクしなかったら一旦立ち止まり、どうしてワクワクしないのかクライアントと一緒に考えて、僕もクライアントも関わっている人たちもワクワクするように変えていくようにしています。

昨年春に仲間を2人増やして3人体制にしました。理由は2つあります。1つは年齢です。今後年齢を重ねていくことで、できること・できないことが生じてきます。

その中で1人ではできないこともあると思っていて、そのできない範囲を超えた域で仕事をしたいと思った時に一緒に成長していける仲間が必要と思ったんです。1人でやることに先が見えてしまったこともあります。

そして、もう1つは、この2人と何かやりたいと思ったから。声をかけるタイミングはバラバラでした。この2人のどちらかと一緒にやっていく想像はつかないけど、2人と共に一緒にやっていく想像はついたんです。

何より2人とも信頼できる人ってことも大きかった…。僕はどの時代も誰かと何かをやっている時が一番楽しいし、それが幸せなんです。

富田祐介・藤田祥子夫妻編へ

富田祐介編1はこちら
藤田祥子編12はこちら)

話し手:富田祐介(株式会社シマトワークス 代表取締役)
聞き手:上泰寿(てまえ〜temae〜編集長)
インタビュー日:令和3年1月24日
インタビュー場所:珈楽枠(クラシック)
上泰寿(かみさま)

上泰寿(かみさま)

フリーランス。鹿児島県出身。10年間市役所に勤務し、現在は編集者見習いとして、「聞くこと」「書くこと」「一緒に風景をみること」を軸に基礎的な力の向上を図っている。